秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

神宮の森の親子

昨夜、いつものようにジョギングのあと、クールダウンのためにウォーキングしていると、ある親子の風景に出くわした。

6時30分をすでに回り、このところの日没の早さで、絵画館を巡る歩道はとっぷりと暮れていた。2週目を回り、3周目に向かって、国立競技場の裏手の歩道を走っていると、赤いランドセルをしょった小学校2年生くらいの女の子がひとり、歩いている。

海外なら、信じられない光景だ。平日の夕方過ぎの人通りの少ない、夜の神宮の森を、その年頃の女の子が歩いていたら、海外ならすぐに犯罪に巻き込まれる。連れ込める雑木林はいくらでもある。

クールダウンと、下腹の脂肪をとるための特殊なウォーキングで、超スローで歩いているから、急ぎ足の女の子は、すたすたと遠ざかっていく。

気丈な子なのだろうな、しっかりした子に違いない…。そんな思いで背中を見送って、しばらくいくと、カーブの向こうで、幼児を自転車の荷台に乗せ、母親らしき人物が、その子と口論をしている。

たぶん、塾やお稽古事の帰りだったのだろう。その子を迎えにきた母親は、お稽古事か何かでその女の子に小言をいい、それに女の子が反論したか、反発した。それに母親は、キレてしまい、まだ、小学校2年くらいの女の子を置き去りにして、さっさと先にいってしまったようなのだ。

しかし、さすがに、心配だったのだろう。途中で自転車を止めて、その子を待っていたようなのだ。

が、しかし、だ。そこでも、またもや、母親は、女の子を責めている。しかし、女の子は、泣くでもなく、彼女の言い分で、母親に言い返していた。子どもらしく穏やかに。ところが、再び、母親はキレ、女の子を残して走り去ってしまった。

立ちとまって口論していた二人を追い越したオレを、母親の自転車が追い越し、しばらくして、女の子が
先ほどと同じ歩調で、一人歩いていく。噴水の前の信号にきたときは、もう母親の姿はなく、彼女は、信号が変るのをまって、一人、歩いていった。

どこかで泣くのかなと思って、そしたら、声をかけてあげようと、遠めにみていたが、彼女は泣いていなかった。やはり、気丈なのだ。アホな母親より人間ができている。なぜかそう直感した。その子の歩き方が、そう思わせた。姿勢がいい。歩き方に感情の変化が見えない。きりっとしている。

おそらく、あの母親は、いつもそうしたことを繰り返しているに違いない。「私の言う通りに、なぜできないの!?」。途中、そんな声が聞こえてきた。自分の思い通りにやらないことが気に入らないのだ。

それを子どもにぶつけるが、子どもの方が一枚上手で、「そんなこといったって、私なりにちゃんとやってるから、それでいいじゃない」と、自分の意志をきちんと表明している。母親は、それが、気にいらない。「はい」と返事をすることだけを求めている。

その母親は気づいていないのだ。自分の子が、自分の意志をきちんと言葉にできる気丈さと考えを持っていることを。母親の知る常識以上の世界で彼女は生きている。そんな優れている子を、自分の感情の赴くままに、危険にさらしている。

もし、そこで事故や事件にでも巻き込まれたら、母親はどうするのだろう。かけがえのない宝だったと、そのとき気づいても、そのときは取り返しがつかない。自分が自分がと、自分のやり方とルールばかりを押し付け、子どもの意志や性格を生かす知恵がない。

何かあって、それを後から悔やんでも悔やみきれるものではない。

小学校2年生になると、もう第一次反抗期に入っている。それは成長の証だ。それまでの幼児期のように、いつまでも親の言うとおりには行動しない。それを嬉しく思えないのが、いまの親たちなのだろう。

しかし、その母親にしてみれば、それが娘への愛だと思っている。女の子が向かっている方角は、都営住宅のある方だった。高齢者や母子家庭、低所得者を優先して入居させている。もしかしたら、その母親もパートなどの掛け持ちをしているのかもしれない。夫に先立たれているか、離婚しているのかもしれない。

そうした生活の中で、家計をやりくりして、子どものためにと必死なのかもしれないのだ。それが、自分の我執を愛と勘違いさせることもある。この展開は、まさに、オレがつくった、『幼児・児童虐待』のドラマのまま。

ふと、自分のおふくろのことや幼い頃から中学生の頃まで、寂しい思いをさせた息子のことを思う。

えらそうにいっているが、オレだって、形は違えど、子どもに寂しい思いをさせ、寂しさにとらわれないようにと、自立を促し続けていた。それも、息子には寂しいときもあっただろう…。

親は、実は幼い。たまたま親になったに過ぎない。子どもによって、親にさせてもらうのだ。大人にしてもらうのだ。

来月は、おふくろの三回忌だ。一周忌のとき以来だから、2年ぶりに福岡に帰る。相変らず、子どもように、危うい生活のオレだが、オレがそんな親子の風景を見て、こんなふうに感じていることを知ったら、おふくろは、きっと嬉しくて泣いているだろう…。