秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

モチベーション

上意下達の方や動きやすい、やりやすい…という人たちがいる。多少、上が理不尽で強圧的であっても、こうすべきと指示すべきだし、指示された方が物事は動く…という人たちだ。
 
一方で、内発的、自発的なモチベーションを高められるやり方の方が仕事にやりがいを感じる。やる気が出るという人たちがいる。継続的で、持続的、かつ人の入れ替わりや変更があっても運動や活動、事業が停滞しないから、モチベーションが先だという人たちもいる。
 
だが、実のところ、上意下達の場合でも、上からの指示、命令をやり抜こうというなにがしかのモチベーションが働いていなくては物事が動くことはない。動いたとしても指示を完全に達成できるかどうかは微妙だ。
 
要は、モチベーションのあり方、持ち方、植え付け方が違うだけなのだ。いずれがいいというのは、目指す活動や人の陣容、組織のあり方、組織が向かう方向性によって違う。リーダーの体質によっても違うだろう。
 
映画や舞台芸術の場合、集団制作といった形式のものもたまにはあるが、大方、監督や舞台演出家というものが中心になり、組織をまとめ、牽引するというのが前提になっている。つまり、上意下達式。
 
だが、こうした場合でも、最終的には関わり合うスタッフや出演者、プロデューサー、制作者なのどの内発的で自発的な動機付けがなくてはうまくはいかない。とくに、映画や舞台というのは役割分担が明確な分、いつも例に挙げるようにラグビーチームのような自分の担当部署を責任を持ってこなし、アイコンタクトでボールを渡す…という自覚と責任意識がなくては勝てるチームにならない。勝てるというのは、いい仕事を視聴者や観客の前に出現させるということだ。
 
だから、そこにはスキルもいる。このスキルを磨くのも、だれかに指示、命令されてやっている内は、ありきたりのことしかやれないし、向上しない。自ら貪欲に学び、吸収し、試し、失敗し、修正し、また挑戦し…ということを執念のように繰り返す中でしか技能は上がらない。
 
個人技ではなく、チーム作業だからこそ、仲間に迷惑や面倒をかけないためにというFor Allの精神がいる。安全なわかりきった場所、自分が殿様でいい気分でいられるところにいては、それはできないし、チームの新しい地平も見えてはこない。

そうした前進への意欲、困難の中でも立ち向かう勇気…それはやはり、最終的には内発的で自発的なモチベーションなのだ。もっといえば、負けん気のようなものといってもいい。悔しいという思い、深い無念の情があればあるほど、それを前向きにとらえ、モチベーションは自ずと内発的、自発的なものになる。そして、やがて、それが自らの使命や天職と思えるようになっていく。

上意下達ばかりではいけない理由はそこにある。強い指示、命令についてこれない人間は自信をなくし、落ちこぼれる。結果的には見捨ててしまう人間をつくる。もちろん、スキルや能力の低い人間ばかりでは組織は機能しない。しかし、それを底上げすることで生まれてくる、モチベーションがある。自分たちにもやれるのだ、できるのだという感動がそれを生む。そのためには、人の持つポテンシャルをまずは信じるしかない。
 
それを磨こうとするかしないか。潜在的な能力を引き出し、高めようとなれるか…それは、しかし、一人ひとりの決意と意欲の中にしかない。