秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

3つの目の作法

なにかひとつの意見、問題提起、発言、提案といったものがあったとき、人がとる作法は大きく分けて3つほどある。
 
ひとつは、事を荒立てるようなことになりはしないか、不快感を持たれてしまうのではないか、あるいは、ここで何事か反論めいたことをいうと自分の本性があからさまになってやばくはならないか…ということで、あえて、スルーする。スルーしないまでも、にっこり顔で同意でも、反論しているわけでもない、あいまいな笑顔を返すことだ。もちろん、あいまいな笑顔とは比喩で、どちらにでも受けとめられるように保留する…ということだ。
 
もうひとつは、ここであえて意見を述べてもしかたない…と考えて、いろいろに思うところはあっても、あえて、それに反応しないという身の処し方もある。それは意見、問題提起、発言、提案がつまらない内容だということもあるかしれない。あるいは、それについて意見を述べると対立軸がはっきりしているので、始めてしまうと収拾がつかなくなるから、事を荒げまいとしているのかもしれない。いずれにしても、こうした作法をとる場合、人はつまならなそうな顔になる。
 
最後のひとつは、とりあえず、ひっかかったことはきちんと伝えておこう。あるいは、わからないことがあるから、わかないことがあると意志を表明しておこう。相手の知識に誤りがあることは指摘しておこう。もしくは、意見が違うことをきちんと相手や周囲に知らしめておこうとする処し方だ。
 
この3つでない場合、意見、問題提起、発言、提案をしている発言者の態度や言い回し、言葉、そして考え方が鼻っから気にいらなくて、憮然としているか、発言者がどうしてそうした意見、問題提起、発言、提案しているかという背景や理由を探ろうとせず、ダメだ、つまならない、くだらない、自分とは考えが違うと決めつけて、最初から拒否の扉で心を固く閉ざすかだ。
 
当然ながら、物事を前へ進め、何事かを生み出していくためには、3つ目の作法が適切だ。
 
もちろん、議論には技がある。日本人は不慣れだが、ディベートをやる場合、その技術の高さによって、人々が話を受け取る印象を大きく変える。時には、頭っから全否定で入るというテクニックもある。ディベートの途中で資料を放り出すなんて演出もある。相手の考えを褒め上げるというアイロニーもそうしたテクニックのひとつ。元首相の小泉や大阪市長の橋下は、これらを意図して駆使し、大衆心理をつかんできた。

しかし、いくらテクニックに走っても、結局、3つ+1のうちのどの位置で議論をしているのかによって、実現できるものが違う。
 
若い頃から、オレは面倒くさいやつだと思われてきた。きちんと物を言うという点を評価もされてきたが、その評価をしている連中からも、面倒くさいといわれてきた。まして、議論ではまともに太刀打ちできない奴らからは、一層面倒くさいと思われてきただろうw
 
だが、オレに言わせれば、まともな議論をやる奴が、この国にはあまりにも少なすぎる。だから、対立する考え方を持っている奴でも、まともに議論ができる希少な奴に出会うと尊敬の念さえ持つことができるw
 
人が何事かを語り合って、完全に一致することなどない。そもそも、互いを本当に知ろうとすれば、議論はつきものなのだ。それをしなくては、本当の意味で友人にも仲間にも、ライバルにも、尊敬できる好敵手にもなれない。
 
感情にまかせた口論は意味がない。不毛だ。だが、こうあるべきでないのかという意見を持ち寄ることには、きっと何かを互いに発見でき、何かを生み出す力になる。上意下達がいけないのは、その力を壊すから。どのような立場の違いがあるにせよ、また、年齢の違いがあるにせよ、その懐がなければ、それは議論のための議論。ヘタをすれば、大人口論で終わってしまう。
 
週明けの国会中継を見ていても、お決まりの討論番組を見ていても、議論のための議論。大人同士の口論ばかり。こんな姿を見て、若い奴らが、大人や政治に期待するわけがない。議論を積み重ねてこそ、新しい未来があるのだという教育も、通じるわけがない。