秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

飯盛山の声  会津応援バスツアー紀行4

飯盛山は2回目になる。会津には8回も来訪しているが、観光地をめぐったのは、「福島・東北まつり」の事前準備の折、鶴ヶ城飯盛山にいっただけだった。

観光課・八重の桜プロジェクト推進室へ打ち合わせにいくのに、どこの観光地も見ていないのでは話にならない…そう思って立ち寄った。
そのときのある発見については、当時のブログに書いた。

福島県内で育った人間でも、飯盛山にきたことがあるという人間は実は少ない。驚いたのは、数回会津を訪ねているうちに、会津地域の人でも、飯盛山にいったことがない人がいるということだ。
 
確かに、観光地というよりは霊場。地元の人だからこそ、物見遊山で気軽に行ける場所でないといえばそうだ。最初に来訪したとき、FBにアップしようと、何枚か携帯カメラで写真をとった。だが、その夜、駅前のホテルで写真をアップしようとして、やめた。いくつもの霊の姿が写っていたからだ。

もともと飯盛山会津鎮守の宗像神社(厳島神社)が置かれていた場所。神仏習合で、別当の正宗寺とさざえ堂が建立されている。そこから考えても、ここが古くから会津地域の霊場であったことがわかる。
 
つまり、単に、ここは、白虎隊の自刃の場というより、そういう霊を祀り、集める地場だったのだ。実際、最初に飯盛山を裏側から上がっていったとき、ほかと比べて空気が重いと感じた。そして、撮影した写真を見て合点がいった。
 
白虎隊の40名の内、戦闘でなくなった20名をのぞく、残り20名(内1名は九死に一生をえた)は、たまたまここで自刃したのではない。きっと、自刃の場はこことされてしまったのだ。戦闘後の混乱の中、しかも、その遺体は数カ月放置されたままだった。
 
会津に限ったことではない。その土地の寺社仏閣、とりわけ寺と神社が神仏習合で一帯とされている場所には、飢饉でなくなった方、旅の行き倒れ、あるいは身元の引き受けてのない遊女や芸人の遺体がここなら葬ってもらえるだろうと、投げ込まれた。
会津戊辰戦争の折、西郷頼母の女子一族のように自刃した女性も多い。その数300名ほどといわれている。敵に身を拘束され、無事にすむという保証はどこにもない。それは女性だけでなく、若い男子も同じだった。

実際に、会津戊辰戦争の折、士族、商人、農民でも捕虜された女性で官軍に辱めを受けた人は少なくはない。また、女子男子は人身売買されている。
 
当然ながら、官軍が上意下達で意図してやったのではない。たが、戦といはそういう理不尽さがつきもの。まして、当時、官軍といっても下級武士が多く、かつ、元町人や百姓の寄せ集め。略奪と凌辱、人身売買をやる奴がでてきても不思議はなかった。とりわけ長岡攻めで遅参した長州ほかは京都での積年の恨みを晴らすところがなかった。

会津が長く、長州・薩摩を地域感情として受け入れられなかったのは、ただ戊申戦争に負けたからではなく、その直後のこうした辱めがあったからだ。そして、中央政府会津人、福島県人の腹の中にあるその憎悪を知ればこそ、明治以後冷淡な施策をとり続けた。
 
数日前に紹介した会津戦争直後の砲弾を受け、瓦解寸前の鶴ヶ城の姿…。初めてその写真を見たとき、オレには、その向こうに、攻撃と抵抗の激しい戦闘の風景ではなく、自刃した女性や子ども、辱めを受けた女性や人質とされ家畜のように扱われた人々の眼を見開いては見ることも、聞くこともできない、その後の運命と悲痛な顔と叫びが聞こえていた…