秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

孤高の道

芝居に何ができるか…映画に何ができるか…。その問いを背負っていなければ、いい舞台も、いい映画もできるものではない。
 
もっといえば、政治に何ができるか…企業に何ができるか…。そして、突き詰めれば、自分に何ができるか…がなければ、社会というものをよりよくすることも、人々の声を社会に生かし、自分にとっても、自分が愛する身近な人々にとっても、よき家庭、よき地域、よき社会、よき国をつくることはできない。
 
そもそも、人は何かを背負ってこそ、力を出せる生きものなのだ。そして、その背負うものが大きいほど、絞り出す力も大きなものになっていく。
 
いまだれに聞いても、芝居がおもしろくない、映画がつまらない、政治が信じられない、企業は当てにならない、そして、自分なんてつまらない…という声を聞く。はっきり、そうは言い切らなくとも、大方そうした思いなのだな…と感じることが大半だ。
 
それは、社会そのものが、何かをきちんと背負うということをしなくてなってきているからだ。
 
For All ではなく、個人の都合や損得が先にある。あるいは、For Socialではなく、わずかばかりの自分を取り囲む矮小な世界だけの安全、安心が重要になる。For Nationではなく、自分たちの主義主張だけが通れば、それが本来の国のあり方だと歪曲する。それらは、実は、なにひとつ他者や社会や国を背負ってなどいない。

個人の都合や損得の外にある利害を越えたもの、自分たちの矮小な世界の安全、安心の外にあり、安全、安心が脅かされているもの、自分たちの主義主張とは異なる多様なるもの…それらを引き受けていく姿こそが、何事かを背負うということなのだ。
 
ひとつの方向にしか人々の意識が向かわない。それをオレはよく「アキバ化」という。人々が、同じ志向、同じ趣味、同じ考えの輪の中にだけいて、閉じたネットワークを最良とし、究極のカスタマイズを追及する。その姿をそう呼んでいる。
 
同じ方向へ向かいながら、多様性より、より微細な細分化によって、結果的には、弧へと大きく舵をきる。だから、背負うものは、少なくなる。いや、背負うべきものをかなぐり捨てるのだ。結果、自分の都合や主張さえ通ればそれでいい…という人間を増産していく。それは、なんと愚鈍な孤立への道だろう。

何かを背負うということは、そんなに恐れるべきことでも、難しいことでもない。ただ、人を、家庭を、社会を、国を、その総体によって愛するということだ。愛することのできるものにする努力を積み重ねていくということだ。
 
それは、確かに、こうした時代には孤立へもつながりかねない。しかし、それは愚鈍な孤立ではなく、明日を拓く孤高の道につながる。それがシンボルとなることで、人はより広い世界へ勇気を持って、歩み出すことができる…
 
監督がブルドーザーのようにやり続けてきたことは、それではないかと思っている。
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