秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

品格と品位

人の死の現実というものを遠ざけた社会…それがいまという時代のひとつの大きな表象だ。
 
戦争の記憶が風化するように、人の死が家から病院へと隔離されていくように、あるいは、事故や被災の生々しい亡骸や内戦やテロによって奪われたいのちの遺体の現実が報道から隔離されていくように…死の現実というものが人々の感覚から遠ざけられる。
 
それは、そこにとどまらず、老いや障害といったものを社会から隔離したり、格納する意識を育て、美しい都市的風景や居住空間といったものから、人の臭いや排せつの現実を消し去ろうとする。
 
あるいは生産や製造といった機能性と合理性、そして功利性の美意識が、足でまといになるもの、機能性と合理性、功利性というスピードについていけないものを排除する社会を当然としていく。

成長発展へ向かう過程だけでなく、低成長減速の時代になると、ひとつの利益や優位性というパイを求めて、この競争意識はより高まり、そのための危機意識や「あいつが浮かべば、オレが沈む」という競争原理へ走らせ、内部抗争、対立、いじめ、排除といった構図をつくりやすくなる。

いつもいうが、平時にあって、よきこと、人々が合意できる正しさを生きることは、それほど難しくはない。また、その実感も、切迫感も希薄だ。だからこそ、非常時にあるとき、人はそのよきこと、正しさを全うできない。
 
大切なのは、危機的な社会状況や未来予測が困難なとき、個人の生活が順風ではないとき、それでも、死を前提とした、限られた生の中で、いま互いがこうして、ここにある…という現実に感謝でき、そのありがたさを互いが育てようとすることができるかどうか…ということなのだ。これは人という個人だけの問題ではない。地球という星にともに生きる同時代人としても通じることだ。
 
つまりは、競争と排除の原理ではなく、異なるものを認めながら、協働の道を探るということだ。つぶし合いによって、わずかな優位性を確保するもの、地域や国がある世界・社会と、ダントツに優位性は確保できなくとも、やや優位なるものの数を増やすことで、競争と排除の原理とは異なる世界・社会を築いていくか…その選択の岐路に、オレたちとオレたちの社会、国、世界はある。
 
マイケル・サンデルの共同主義論の数式とテーゼの基本にはそれがある。そして、サンデルがその論的根拠のひとつにしたのが、高度成長期の入り口にあった日本社会だった。
 
東日本大震災はその力を再びこの国の取り戻すいい機会だったと思う。だが、震災から1年半が過ぎて、その期待された軌道を描くことなく、震災後の姿は、いま別の姿を現し始めている。その対処、復興への道筋が稚拙であるがゆえに、日本国民にすでにあった不安要因を強化するひとつとなり、それは社会の制度や国のしくみへの信頼を失わせ、不安を排除するためのより強き制度、国家的しくみへの願望へと転換している。
 
そしていま、相次ぐ、国境侵犯がそれに拍車をかけている。旧来からの世界観を変えられない人々はそれについて強行な言葉を連発する。だが、冷静に考えてみれば、アメリカはもはや唯一の大国ではなくなりつつあり、中国の大国主義への道はとどまることはない。アメリカの覇権の中にいることに、すでに韓国の人々は決別さえしようとしている。そして、日米のあり方も変化の入り口に入っている。
 
構造が大きく変わろうとするとき、どこに基軸を置いて、世界の中の日本であろうとするのか…かつてのこの国がそうだったように、覇権や力で立ちはだかるものに、同じく覇権主義と力で対抗するのか。それとも、日本国憲法という世界に類のない憲法を持つ日本人と日本国だからこそできる、新しい世界秩序への道を提言する、世界の尊敬と信頼を得られる道を歩むのか…
 
いま、日本人と日本の国の品格と品位が問われている。