秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

はい。ごきげんよう。

もう3年ほども前のことだった。陽ざしの強い夏の午後、いつものように負荷になる鉄アレーをリックに背負って、神宮外苑の野球場の外周を数周歩き、青山墓地を抜けて、乃木坂に戻ろうとしていたときだった。
 
甲高い女性の声が、オレの名前を呼んでいた。青山霊園のこんな場所で、だれかに声をかけられることなどないと思っていたオレは、その声が自分を呼んでいることにすぐに気づけなかった。
 
何度目かの声で、その声がオレを呼んでいることに気づいて、だれだろうと背後を振り返ると、夏の木々の鮮やかな緑と透き通った光の中に、車椅子の老人とそれを介助している女性の姿が、まるで仕込まれた映画のロングショットのように、そこにあった。
 
完璧な映画の写真になっていた…。
 
本人たちがだれなのかに気づくより、その画角と構図のすばらしさにオレは一瞬、見惚れそうになった。ああ…これは作品につかえる…。心のどこかでそう思った瞬間をいまでも覚えている。映画をやっていると、ふとした風景がそういうふうに見えることがある。そうした映像は深く心に刺さり、何かの作品のカット割りを考えているときに浮かびあがることが多い。
 
オレの名を呼んでいたのは、車椅子に座る老人の孫。もう知り合ってから10年近くになるK。そして、車椅子に座っていたのは、尊敬する新藤兼人監督だった。

監督の身の回りの世話をやっていたKが、なにかのときに、「じっちゃんを連れて、よく秀嶋さんのマンションの前を通ってるわよ」といったことがあった。しかし、こうして、道端で偶然遭遇することは、それまでなかった。監督は、『石内尋常高等小学校 花は散れども』を撮り終えた頃だったと思う。
 
Kが何度呼んでも、オレが振り返らないから、監督は、「人違いじゃないの?」といっていたらしい。尊敬する監督に、あいさつをして、そこからKと肩を並べ、車椅子の脇を一緒に歩いた。オレは、多少、緊張気味に監督の様子を伺いながら、しかし、Kとバッカ話をしながら、歩いていた。
 
すると、要所要所で、監督がオレたちの話に笑っている…。このおやじ…やっぱ、化け物だ。そう思った。100歳に近い高齢者が、オレたちのバッカ話をしっかり聞いている。オレのマンションの前まできて、Kとまた会う約束をしてから、監督に、あいさつをした。監督は日よけのよれよれの帽子をわざわざとって、丁寧にあいさつを返してくださった。「はい。ごきげんよう」。
 
監督がどの程度、Kからオレの仕事のことを聞いていたのか知らない。しかし、大監督だということをどこにも感じさせない、つくられる作品通りの方だなと思った。
 
高校時代、そして大学時代、オレは新劇やテアトロといった演劇誌のほかに、シナリオを購読していた。そこに連載記事を書いていたのが監督だった。作品もだし、そうした映画芸術論もそうだ。そうしたものを通じて、いろいろなことを学ばせてもらった。小中学時代に木造講堂で長い茣蓙を敷いて観た児童劇映画のいくつかも監督の作品だった。
 
東映や教配など、社会映画、教育映画をつくっている制作会社と仕事をするようになって、オレの前には、いつも監督がいた。自分の信念で映画を撮る見本のような人だった。
 
また、近代映画協会は独立プロであるがゆえに、経済的には厳しく、そうした作品をつくることでスタッフを養っていた。しかし、作品は、確かなものだった。片手間仕事の作品はひとつもない。「砂の女」など名作にかかわった、教配の高齢の部長に、オレの作品は、どこか監督の作品に似ているといわれたことがある。光栄だった。
 
うちの秀嶋組は、撮影前のオールスタッフ(スタッフ会議)ではカット割り、現場の進行、段取りを全員で確認し、照明だろうが、ヘアメイクだろうが、作品そのものに自由に意見を言い合う。ときに、議論が長引くこともある。それぞれが作品づくりの主役だ。だから、みんなしっかり本を読み、演出イメージを理解できる。取り入れる意見も多い。
 
東映のプロデューサーが初めて同席したとき、その姿に驚き、感動していた。しかし、そうしたやり方をする制作組は少なく、新藤組が最初にやったことだと、後に知った。

赤坂の自宅でなくなった。すぐにKのことが心配になった。二人暮らしだったからだ。孫ではあるが、ある意味、乙羽さんがいなくなった空白をKが埋めていたと思う。同時に、Kも監督を支えていくことに、ひとつの生きる道をみつけていただろう。
 
「はい。ごきげんよう」…その声が、オレなどより、ずっとずっとKには重いに違いない。