秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人を描くということ

日本アカデミー賞の最優秀賞が決まった。
 
大方の予想通り、吉田修一原作の『悪人』がほとんどの賞を受賞。しかし、映画作品としての最高の名誉である、作品賞、脚本賞、監督賞は、全賞総なめにすると予想されていた『悪人』を制して、湊かなえ原作の『告白』が割って入る形になった。
 
昨日、Facebookでも紹介したのだが(一部書き込みで『悪人』の原作を東野と記載していました。訂正してお詫びします)、映画作品としての自立性、映画としてのクオリティは、地味ではあるが、『告白』の方が勝っていたと思う。
 
『悪人』も優れた映画作品だが、どうしても原作の力によっていることはいなめない。この映画を実現したいという、ひとりの監督の熱意と思い、そして、映画人としての使命感が伝わってくるのは、やはり、『告白』の方が上だった。
 
オレのHPの作品評でもふれているが、『告白』は、東宝の役員会議でいったんボツになりかかった。それを東宝の社長が、「こうした作品は、映画会社として制作する社会的使命があるのではないか…」と、若手気鋭の川村元気プロデューサーを後押しして実現した作品。
 
確かに。オレも映画を観たとき、東宝ぞ、よくやったと心の中で拍手を送った。ボツにされないまでも、いくら原作が累計300万部を越えたとはいえ、こうした地味で、重いテーマを扱った作品が、TOHOのメイン劇場を使い、全国公開されるようなことは、もうずいぶんなかったからだ
 
まして中島監督は、生え抜きの映画監督ではない。PVやCMといった世界から映画の世界に入ってきた監督。それだけに、制作の手法も旧来の映画監督とは違うし、新鮮味がある。それだけに、自らが企画する映画を実現するためには、閉鎖性の強い映画界の壁もあったと思う。それは、オレ自身、いつも経験していることだ。
 
映画とは何かということが、この数年、見失われて久しい。
 
テレビドラマのヒット作をスケールアップして映画化し、映画の客でなく、テレビの視聴者をテレビスポットで大動員するといった手法やまずはヒットした小説の原作ありきから、映画の企画が始まる。
 
そうでない場合は、話題のイケメン俳優や出演する俳優がどれだけ観客動員できるかで、作品、キャスティングがあらかじめ決まる…といったような乱暴なことを日本の映画界、テレビ界、広告業界はやってきた。企業も安全な収益と宣伝効果をねらって、そうした映画に投資もしてきた。
 
しかし、そうした、ことなかれのシステムからいい映画、いい作品が生まれてくるとは思えない。興行であり、商売である以上、すべてがそうあれとはいわないが、映画が果たすべき使命や役割、もっといえば、映画人としての矜持を感じられない作品ばかりでは、結果的に、一層映画を疲弊させる。
 
一時期大量動員ができても、国内でしか通用しない映画ばかりがあふれ、日本映画は世界から取り残されていくことになるだろう。
 
それは、俳優というものを育て、作り上げていく上でも重要なことだ。厳しい作品の中で、確かな演技を必要とされる芝居を積み上げることが、俳優としての成長にもつながるからだ。
 
『告白』は、社会映画であり、教育映画でもある。普段から映画関係者やスタッフ、俳優に、いつも語っているが、いまある社会問題、人々が抱えている課題や気づいていない社会矛盾…、そうしたものに支配され、取り囲まれ、人は生きている。
 
人間を描くということは、そうした社会の実体をきちんと見据えた上で描くということだ。その中でこそ、人は狂気にもなれば、鬼にも、邪にも、そして、天使にもなる。人間の深層を描くためには、そのまなざしは絶対に必要なことだし、それがあって、初めて、映画は、映画足りえるとオレは思う。
 
気難しい作品ばかりでなく、コメディであれ、スペクタクル作品であれ、その視点のない映画は、映画である必要はなくなるし、そこに人が描かれていなければ、映画をつくる意味はない。
 
同時に、そうした作品を見抜ける観客がいなければ、それもできない。しかし、まず映画人が冒険をしない限り、そうした埋もれている観客を掘り起こすこともできないのだ。
 
この2作品の示す意味を、すべての映画人は真摯に受け止めなくてはいけないときにきている。気骨と熱意を持ち、人を描くということにひたむきな、職人ではなく、自立した作家を人々は求めている。