秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

そんなに難しいことではない

他者を思いやる…というのは、ただ他者に対してやさしくするということではない。また、同時に、やさしくあろうとして、他者の考えや生き方をただ容認することでもない。
 
人にやさしくある…ということと、人を思いやるということは、実は同じことのようで、深さにおいて違う。とりわけ、やさしさの時代といわれるようになってから、やさしさの本質がすり替えられてしまっている。
 
他者を思いやるからこそ、自分の思いだけをぶつけるのではなく、ちょっとした気づきのサインを投げかけて、相手が気づきを持つのを待つ…ということもできる。場合によっては、なおざりにしないで、気づいたことはきちんと言葉にして叱る…ということもできる。
 
どうでもいいと思えば、あえて、気づきを待つことも、気づいたことを言葉にして叱ることもない。それは、相手を思いやってはいないからだ。相手への気遣いでもなければ、やさしさでもない。他人事として素通りしているだけだ。
 
亡くなった母が、「人を本気で怒るのには、エネルギーがいる。いい加減な怒り方かそうじゃないかは、相手が本気かどうかでわかるのよ。相手に本気が伝るから、怒られた方は、そこから何かを学ぶことができるの。だから、生半可に人を怒ってはいけない」とよくいっていた。
 
そして、決まって、「思いあまって、思わず、手が出てしまうときもある。だけど、そんなときは、殴られる方も痛いけど、殴る方も痛いのよ…。殴る手が痛いんじゃない。心が痛いの…」とどこか申し訳なさそうに言葉を足していた。オレが小学校の中学年の頃、おふくろによくビンタをされたからだ。
 
監督や演出の仕事をしていると、どうしても俳優やスタッフを叱らなければならない場面がある。何かの不手際を叱りることもだが、作品づくりの中では、常にダメ出しを繰り返さなくてはいけない。
 
そのときに、作品をいい方向へ導こう、俳優、スタッフを育てようという明確な意図や思いがなくては、後に必ず気まずさが残る。気まずさばかりでなく、反感を抱かせることにもなる。ダメ出しも、俳優やスタッフを困惑させたり、混乱させるようなダメ出しは互いの信頼関係を失わせるだけだ。

そういう現場能力のない監督や舞台演出家はたくさんいる。そうした人の作品は、当然、いい作品ではないし、俳優、スタッフが一丸となって作品づくりに取り組んでいる、息遣いのようなものが伝わってこない。
 
また、怒られる方がそのダメさがわからなくて、監督や舞台演出家だから、まちがいないのだと盲目的になり、無駄な困惑や混乱を乗り越えることがいい作品づくりのためだと勘違いしてしまうこともある。

叱り方も、ダメ出しの仕方も、物事をわきまえてやらなくてはいけないし、そこに筋が通っていなくてはいけないということだ。だから、感情丸出しで叱ることを、叱るとはいわない。感情が先に行くと、重箱の隅をつつくような物言いになるし、また、重箱の隅をつつくような言い訳や反論をつくらせてしまう。
 
大局をつかむ。つかんだ上で、いまダメ出しをしていることが、大局の中のどの位置にあるのかを相手に理解させなくてはいけない。だから、感情ではなく、依拠する理屈がなくてはいけない。つまり、どこかで冷静に、きちんと計算を立てて人は叱らなくてはいけない。それができるのも、思いやる気持ちがあってのことだ。
 
この数年、よく男女のごたごたや結婚するしないの悩みを聴かされる。それだけ、歳をとったということのなのだろうが、大事な話をしていなかったり、いうべきことをいっていなかったり、相手への執着や自分への執着が強い人が多い。異性といるときの安心感や異性がいるということで人並みである自分に安心しようとしながら、肝心なことは、何も見えていない…という場合が多い。
 
人を思いやるというのは、そんなに面倒で、難しいことではない。なのに、相手や自分への執着がその簡単なことを難しくしている。