子どもの力
社会教育映画作品を制作していると
子役の子どもたちや若い俳優に 重要な役をやってもらうことが多い
幼児から20歳前後まで その内容によって幅はあるが
彼らと仕事をして 常に思うのは その素晴らしい感受性だ
それと 子どもならではの洞察力 社会観察力
彼らには 大人や社会のウソや真実を見抜く力ある
こちらが感心したり なるほどと発見することは多い
普段の学校生活や暮らしの中で 親にも 教師にも 周囲の大人にも
なかなか 面と向かっていえないこと 心の奥に秘めていること
そうしたことを オレの芝居では要求されるし そういう作品だから
ある意味 自分の日常で 下隠しにしている 本来の姿を見せなくてならない
大人の前で いい子にして隠している 力を発揮しなくてはならない
だから そこに 彼らの本当の姿が見えるし
その力に感心したり 本当の言葉 姿にこちらが学ばさせられり 発見することが多いのだ
それは 俳優としての力量がどうであるかとは別の問題だが
ダメ出しをしたときの反応 撮影中に交わされる会話 スタッフやオレが出す指示への反応
そうしたものをみていると 彼らの個性や感性 家庭環境や普段の友人関係
その将来の姿まで見えてくる
それは 確かに子役や若い俳優に限ったことではなく 熟練した俳優でも同じなのだが
その現われ方が 実に直接的で ビビット
30代過ぎた俳優たちとは明らかに違う
彼らのまだ未熟であるがゆえの 素直さ 純粋さが出たとき
オレはいつも世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉を体感するのだ
世阿弥のいう「初心」とは
これをやるぞと決意した気持ちを忘れなる
入社したときの気持ちを忘れるな
といった若い人間へ向けた言葉ではなく 手馴れて 成熟し 熟練した役者に
未熟だった頃の自分の素直さ 純粋さ 真摯さ
つまり 物事にビビットに反応でき 謙虚でいた
あの心を忘れるなと戒めたものだ
子役や若い俳優の芝居は 技術や質 あるいは才能で劣る部分はあるが
その一点においてヘタに食えている役者より秀でていることは少なくない
もう一つは 彼らが そうした素直さの中で 伝えてくれる普段の生活情報の貴重さ
彼らが オレの仕事のような場で 自分という人間の心の真実を曝け出し
彼らが いかに自分たちのいろいろな問題を的確にとらえ
真実を見抜いているかがわかるほどに
彼らの日常が いかに歪められ ストレスや圧力に晒されているかがわかる
彼らに自己表現を自由にさせてやれる場があれば
彼らを取り囲む問題を 彼ら自身の力で 解決できるはずなのだ
子どもに対して こうしなくてはいけないと 大人の思う 正義や期待ばかりを押し付け
結局 子ども自身に自由に発言させたり 考えたりできる場をほとんど与えていない
それが 子どもの抱える問題を より複雑で 解決困難なものにしている
子どもが社会的に間違ったこと 他者を傷つけるようなことをしたとき
毅然とした態度で 叱ることも必要だが 同時に
それをした心が何なのかを開かせる ふれあいも大事
拙著『思春期の心をつかむ会話術』でも 述べているが
子役や若い俳優との仕事の度にそれを感じる
あまりに 子どもたちの現実の生活情報と それをどう彼らが感じているかが
大人に伝わっていない 理解している気になって わかろうとしていない
それは まるで 不況の中で 生活苦や貧困 先の見えない不安を抱えながら
日々生活している人々の 切実さや苦労を 生活実感としてわかっていない
この国の愚かな政治家たちたちと同じ姿だ
この週末 雑用で道行く途中に 桜を眺めるだけで 一滴の酒も飲まず
だれとも会わず だれからの連絡もなく 事務所でひとり
この間 撮影した作品の編集作業を 深夜までやっていた
フライヤーの原稿を東映に出しているので 編集を終えて フライヤーに訂正があれば
校正段階で修正しなくてはいけない フライヤーのゲラが出るのが 今週中くらい
そこでせっせと編集をやっていたのだが
映像の中で フリーに話させた子役たちの発言に 本当にこいつらすごいなと感心し続けていた
オレの作品が売れているのは 彼らのおかげと いってもいい
よくオレをよく知る人間たちから オレは子どもだといわれる
この間 Redの常連の女性ドラマーのアッちゃんが カントクの言葉はすごいけど カントクは
家庭生活や夫婦のことでいろいろとあったし 子どもとも同居していなかったに近いのに
なぜ そんなふうに教育のことや子どものことがわかるの と訊かれた
オレにもわからない
だが もし あるとしたら オレ自身が子ども時代 感じていた大人への目線を まだ
失っていないからだろう と思う
そして たぶん 思春期 青年期の子どもたちとふれあうことが好きだからだ
下ネタの多いオレが そういうといつも誤解されるが
自分の言葉は 心にあふれているのに それを口にできない 言葉にできない
もどかしさや辛さ 苦しさを知っているからだ と思う
人は 孤独の中で 愛を知るのだ
孤独はときとして 人を偏狭にも 歪にもするが
その源にある 孤独であることの 寂しさや辛さは その裏返しに愛を求めているからだ
その気持ちがあれば いまこの日本にあれている 孤独たちの心がわかる 声なき声が聞こえる
そして それをいとおしいと思う心が 沸いて来る
つながりあえるがどうかは わからない だが いつかつながり会えると信じて
孤独であることを生きるしかない
その向こうに True Loveが見えてくる
それも 息子を含め オレが出会う子どもたち オレの中の子どもが
教えてくれていることなのだ
子役の子どもたちや若い俳優に 重要な役をやってもらうことが多い
幼児から20歳前後まで その内容によって幅はあるが
彼らと仕事をして 常に思うのは その素晴らしい感受性だ
それと 子どもならではの洞察力 社会観察力
彼らには 大人や社会のウソや真実を見抜く力ある
こちらが感心したり なるほどと発見することは多い
普段の学校生活や暮らしの中で 親にも 教師にも 周囲の大人にも
なかなか 面と向かっていえないこと 心の奥に秘めていること
そうしたことを オレの芝居では要求されるし そういう作品だから
ある意味 自分の日常で 下隠しにしている 本来の姿を見せなくてならない
大人の前で いい子にして隠している 力を発揮しなくてはならない
だから そこに 彼らの本当の姿が見えるし
その力に感心したり 本当の言葉 姿にこちらが学ばさせられり 発見することが多いのだ
それは 俳優としての力量がどうであるかとは別の問題だが
ダメ出しをしたときの反応 撮影中に交わされる会話 スタッフやオレが出す指示への反応
そうしたものをみていると 彼らの個性や感性 家庭環境や普段の友人関係
その将来の姿まで見えてくる
それは 確かに子役や若い俳優に限ったことではなく 熟練した俳優でも同じなのだが
その現われ方が 実に直接的で ビビット
30代過ぎた俳優たちとは明らかに違う
彼らのまだ未熟であるがゆえの 素直さ 純粋さが出たとき
オレはいつも世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉を体感するのだ
世阿弥のいう「初心」とは
これをやるぞと決意した気持ちを忘れなる
入社したときの気持ちを忘れるな
といった若い人間へ向けた言葉ではなく 手馴れて 成熟し 熟練した役者に
未熟だった頃の自分の素直さ 純粋さ 真摯さ
つまり 物事にビビットに反応でき 謙虚でいた
あの心を忘れるなと戒めたものだ
子役や若い俳優の芝居は 技術や質 あるいは才能で劣る部分はあるが
その一点においてヘタに食えている役者より秀でていることは少なくない
もう一つは 彼らが そうした素直さの中で 伝えてくれる普段の生活情報の貴重さ
彼らが オレの仕事のような場で 自分という人間の心の真実を曝け出し
彼らが いかに自分たちのいろいろな問題を的確にとらえ
真実を見抜いているかがわかるほどに
彼らの日常が いかに歪められ ストレスや圧力に晒されているかがわかる
彼らに自己表現を自由にさせてやれる場があれば
彼らを取り囲む問題を 彼ら自身の力で 解決できるはずなのだ
子どもに対して こうしなくてはいけないと 大人の思う 正義や期待ばかりを押し付け
結局 子ども自身に自由に発言させたり 考えたりできる場をほとんど与えていない
それが 子どもの抱える問題を より複雑で 解決困難なものにしている
子どもが社会的に間違ったこと 他者を傷つけるようなことをしたとき
毅然とした態度で 叱ることも必要だが 同時に
それをした心が何なのかを開かせる ふれあいも大事
拙著『思春期の心をつかむ会話術』でも 述べているが
子役や若い俳優との仕事の度にそれを感じる
あまりに 子どもたちの現実の生活情報と それをどう彼らが感じているかが
大人に伝わっていない 理解している気になって わかろうとしていない
それは まるで 不況の中で 生活苦や貧困 先の見えない不安を抱えながら
日々生活している人々の 切実さや苦労を 生活実感としてわかっていない
この国の愚かな政治家たちたちと同じ姿だ
この週末 雑用で道行く途中に 桜を眺めるだけで 一滴の酒も飲まず
だれとも会わず だれからの連絡もなく 事務所でひとり
この間 撮影した作品の編集作業を 深夜までやっていた
フライヤーの原稿を東映に出しているので 編集を終えて フライヤーに訂正があれば
校正段階で修正しなくてはいけない フライヤーのゲラが出るのが 今週中くらい
そこでせっせと編集をやっていたのだが
映像の中で フリーに話させた子役たちの発言に 本当にこいつらすごいなと感心し続けていた
オレの作品が売れているのは 彼らのおかげと いってもいい
よくオレをよく知る人間たちから オレは子どもだといわれる
この間 Redの常連の女性ドラマーのアッちゃんが カントクの言葉はすごいけど カントクは
家庭生活や夫婦のことでいろいろとあったし 子どもとも同居していなかったに近いのに
なぜ そんなふうに教育のことや子どものことがわかるの と訊かれた
オレにもわからない
だが もし あるとしたら オレ自身が子ども時代 感じていた大人への目線を まだ
失っていないからだろう と思う
そして たぶん 思春期 青年期の子どもたちとふれあうことが好きだからだ
下ネタの多いオレが そういうといつも誤解されるが
自分の言葉は 心にあふれているのに それを口にできない 言葉にできない
もどかしさや辛さ 苦しさを知っているからだ と思う
人は 孤独の中で 愛を知るのだ
孤独はときとして 人を偏狭にも 歪にもするが
その源にある 孤独であることの 寂しさや辛さは その裏返しに愛を求めているからだ
その気持ちがあれば いまこの日本にあれている 孤独たちの心がわかる 声なき声が聞こえる
そして それをいとおしいと思う心が 沸いて来る
つながりあえるがどうかは わからない だが いつかつながり会えると信じて
孤独であることを生きるしかない
その向こうに True Loveが見えてくる
それも 息子を含め オレが出会う子どもたち オレの中の子どもが
教えてくれていることなのだ