秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

やさしさを生き抜け

人は、おしなべて、やさしくできている。

やさしくできているから、心に傷を負うとそれが痛手になる。いまの若い世代には、この傾向が特に強い、という印象をオレは持っている。

以前、Redでやった斎藤環氏とのミニミニシンポで、斎藤氏が犯罪統計データを例にして、30代以下の若年層に自己否定が蔓延していること、それゆえに、従順で、心優しき人々が多いという話題を提供してくれた。

この傾向は、実は、10年前から同じで、様々な少年犯罪やネット問題を作品に取り上げることも、教育・社会問題の講演やシンポで、犯罪や事件を事例に取り上げることも多い、オレは、定期的に警察庁総務省が発表する白書や犯罪統計には目を通していて、斎藤氏があえてそれを指摘したとき、いまさらという思いがなかったわけではない。

が、しかし。斎藤氏が、この時期にあえて、いまさらのように犯罪統計と若年層の心やさしさを話題にしたのにはわけがある。

10年前に比べて、その統計バランスが極端な曲線を示しているからだ。

それに比例して、いわゆる重大事件、無差別殺傷事件などの通り魔的事件、家族内殺傷事件は増大している。福知山線の事故のような、ストレス社会における人災と、明らかにわかる事故やバレバレになるに決まっているという食品偽装など、企業の不祥事、司直や官僚、教育者の盗撮、痴漢、性的暴行事件が起きている。

また、昨日書いたような、ネットの匿名性に紛れた、いじめや差別、誹謗中傷といった暴力、さらには、何かの事故・事件の要因となったり、被害者となってしまった人間への匿名のパッシング、つまり、いやがらせの手紙や電話といったものも増えている。わかりやすいところでいえば、自己中なクレーマーも増大しているのだ。

カナダ留学から帰国した大阪府立の高校や教育委員会に、菌をばら撒くな! おまえらのお蔭で外も歩けない! とか、何ですぐに帰国させかなかった!といった、まさにいわれなき誹謗中傷、クレームが100件近くも寄せられてるというのも、その一つ。

前にも述べているが、他者への暴力や自己中な主張、そこにつきまとうのは、怖れだ。

家庭や学校、そして職活や男女の出会いと交際。そうした生活の断片で、自尊感情を育てられなかった、いわゆる心やさしき奴らは、生きるという免疫力が低い。ちょっとした心ない声かけや言葉の暴力に傷ついて、心を閉ざしてしまうということが起きる。

それを癒してくれるものが社会にあれば、いいのだが、あるのは、エセ信仰のマニュアルであたったり、オカルトくらいなもの。他者との関係も希薄で、他者を信じられない、いまのような社会では、人とつながり合えないから、一度刻まれた傷は、どんどん深くなる。

それが、自分の傷の痛みを他者に味合わせることで、厭そうとする暴力になる。他者を傷つけることで、自分の人生に幕引きをしようという自傷的犯罪にもなる。

つまり、自分自身の脆弱さ、弱さの裏返しが、自己中な、保身に満ちた暴力につなっているのだ。自分が何かの被害に巻き込まれたら、それを乗り越える力も知恵もないことを、実は、知っている。そのパニック状態がずっと続いている状態で、それ以上のストレスを受けないために、つまり、自分を守るために、自己中の鎧を着る。

特段、そいつを標的にしているわけでもないのに、パニックって、被害妄想に襲われているから、世の中すべての不具合なもの、自分に都合の悪いものには、気の小さい、怯えた犬のように、キャンキャン吠える。

もっと心やさしき奴らは、より自傷的になり、薬物や体を売るといったこともすれば、救いもなく死を選択するということもある。

数日前の自殺統計で、一番多かったのは30代。オレが講演で指摘するように、バブル崩壊後の空白の10年で、企業の中枢にいるのは、わずかばかりの40代前半以後と、大半は30代以下の連中ばかり。そこに自殺が集中するのは、経験も教育もないまま、過度のストレスに晒されている30代の歪な現実を象徴している。また、非正規雇用の歪んだ雇用を引き受けているのも、この世代が多いから。

心やさしき奴を救う場も人もいない中、キャンキャン吠えるか、もう無理…と、人生を投げ出す奴。それも、人が本来は、やさしくできているということの裏返しなのだ。

一昨日、物書きのMちゃんと久しぶりの焼鳥Yoshiでメシをし、彼女が抱えてる困難を乗り越えさせたいと
あれこれ話をした。オレでできことがあれば、サポートしてやりたい。そんなオレの思いを感じて、返って申し訳ないと、昨日、携帯に電話が入った。

Mちゃんは、オレなどより、本当に心根のきれいな、やさしい奴だ。それゆえに、返って自分を追い詰めている。自分が悪いと自己否定の海に晒されている多くの30代と同じだ。

心に負った傷を他者への暴力で晴らして自己完結させようとするのではなく、また、自分が悪いと責任をひとりで背負うのでもなく、心に負った傷と、正面から向き合うしか、傷を乗り越えることはできない。

それは、大変辛いことだろうが、痛みを明かせば、それを癒してくれる奴はきっといる。それを信じて、
やさしい自分を生き抜くことだ。

人は、傷ついても、そのやさしさを生きてこそ、人なのだ。