秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ドロドロ

自主作品の最後のシリーズの台本に取り組んでいる。

啓発作品を書いているときは、いつも自分のあり方、生き方、これまでの過ちを振り返らされる。自分の心の奥にある、悪しき部分とも向き合わなくてはいけない。その意味で、啓発作品や社会的な問題を扱う作品は、つくる側にとって、苦しい。

自分自身、えらそうに啓発作品なんて書いていられのか。その思いと向き合い続けなくてはならないからだ。だから、えらそうではない啓発作品を書き上げるというのは、それ自体、修行だと思う。

この世の中、よき人間と悪しき人間だけがいるのではない。子どもであれば、いい子とダメな子がいるわけでもない。人は、おしなべて、すべての人間的要素をその内側に持っている。その事実に、謙虚でければ、現実をしっかりと見据えた本を書くことはできないし、人の真実を描くこともできない、と思っている。

会社勤めの生活で、パリッとしたスーツで仕事をしていても、社会的に尊敬される立場にあり、他者を指導、諭す立場にある人間においても、あるいは、逆に、社会的ハンディをかかえ、弱者としての苦難の人生を強いられている人においても、その中には、よきにつけ、あしきにつけ、人が人である以上、当然、人間の生来のドロドロした性分というものを持っている。

要は、よきものと悪しきものとは、スイッチが入るか入らないかの違いでしかない。

よく講演などでも話をすることだが、生来、他者の人権をいたぶる極悪非道な人間などという人は、ほとんどいないし、いたとしても、ごくわずかの限られた歪な人間だ。大方は、自分では、善意やよかれと思ってしていることであったり、刷り込まれた絶対の価値観から、保身のためにそうする場合が多い。

あるいは、他者の思いや痛みへの理解にかけて、お気楽に、当然のことのようにそうしている場合が多い。つまり、本人に自覚がほとんどないケースが圧倒的なのだ。最近では、追い込まれて、耐性がないゆえに、簡単にスイッチが入ってしまう人間も少なくなくなっている。

それでいながら、自分や自分の周囲に、理不尽だと思えることが起きると、声高に自己の権利や価値を他者に押し付ける。

だが、だからといって、その人間のすべての人間的要素が否定されるべきなのか。そういう身勝手な奴は許してはならないという理屈に嵌ると、それ自体が人権というものの本質を理解していないことになる。

しかし、同時に、そうした理不尽に人を傷つける行為が野放しになっていてはけない。また、簡単に傷ついてしまう人の脆弱さもそのままにしておいてもいけない。

人に何事かを伝え、視界を広げ、傷つける側、傷つけられる側双方を心の解放へ誘うというのは、ことほど、左様に難しい。だから、多くの人は、わずらわしいそうした問題を社会の表舞台から裏舞台へ隠蔽する。隠蔽するから、他者との関係が表層的になり、ネットや匿名の世界でのいじめがはびこっていく。

一人ひとりが、そうした問題を避けず、自分自身、過ちや誤解、他者への無理解への自覚を経験によって積み重ねなければ、糸口はみつからないと、オレは思う。

自分の心の中に湧き上がる、よき心とも悪しき心とも、正直に向き合う以外に、手立てはどこにもないのだ。

結果、またもや、オレは、自分の中のドロドロした思いや性分と、一人向き合っている。