秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自由になれない不自由さ

ついこの間のブログで、5月6月に無差別殺傷事件が起きている…と書いたばかり。それが大阪の繁華街で起きた。(注:秋葉原無差別殺傷事件を5月と誤記していた。正しくは6月8日)
 
今回の容疑者も小学生まではいい子でいられたが、母親の死、父の会社の倒産など家庭の事情で中学時代からそれまでと違う道を歩んでいる。酒鬼薔薇や秋葉の事件とは違い、成績優秀者であろうとする虚しいプライド、適応障害といった歪み、親の暴力や威圧、されには、学校などでのいじめなどを要因とはしていない。
 
ひどくわかりやすく、暴走族、ヤンキー系に走り、地域を仕切り、最後は、薬に手をだし、覚せい剤で検挙。出所後、故郷に戻ったものの、当然ながら、世間が相手にしない。ただ、これだけは同じで、そこでの憤りを、世間という不特定のだれかに向ける…という構造式になっている。オレには、容疑者が故郷に舞い戻ったときに、居場所のない現実をつきつけられたときの風景が、アイリスの飛んだ画像で見える。
 
酒鬼薔薇と秋葉の事件も本質的は違うし、今回の事件も同一ではない。今回は覚せい剤常習者だったという別のファクターもある。だが、いずれも社会のレールや枠組から自由になれない、不自由さのまま、暴力に走っている。質的には池田小事件の宅間に近い。
 
社会のレールや枠組から自由になれない…というのは、世間や社会といった他人の物差しを基準に自分の人生を考えるように縛られることだ。そのおおもとには、親や家庭、家庭を取り囲む親類縁者、近親者、近所、そして学校といった世間がつくる同調圧力がある。

世間並、あるいはそれ以上…オレたちの社会はずっとそれを当り前のことのようにしてきた。画一性も没個性化もそうしたことから生まれているし、それ以上であるために、歪んだプライドや社会的属性にばかり関心を生む世間をつくってきてしまった。
同時に、失敗してもやり直せる社会ではなくなった。逆に、失敗を徹底的に叩きのめす世間にしてしまったのだ。
 
結果、社会全体から新しいことに取り組む勇気や挑戦心を奪い、問題意識を持つことも、その問題の要因を知ることも、問題が生む他者の困難に自己犠牲を費やす…ということも失っていった。
 
それでも社会の枠組みの中に居場所を確保している人間はいい。しかしながら、よく考えてもらいたい。空白の20年はもはや30年に達しようとしている。当時、社会から脱落の刻印を捺された当時者の家庭の子どもたちは、すでに20才を過ぎ、30代に至っている。思春期に受けた排除の烙印を回復できないまま、大人らしきものになってしまっているのだ。
 
格差の連鎖とそれによる排除の連鎖は、本人の努力を差し引いても限界がある。しかし、それ以上に、失敗を許さない社会の中で、自由になれない不自由さを社会、世間が回復できていないところに大きな問題がある。