秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

恥をしれ

北九州市が瓦礫処理の本格的な受け入れために、試験焼却を開始する。いくつかの自治体が瓦礫処理に手をあげているものの、多くは地域住民の強い反対にあって難航しているのが実情。
 
福島県内の瓦礫については、福島県内での処理が政府の方針。それ以外の原発事故による放射能汚染の線量の低いものについては、全国の自治体が協力を…その呼び掛けに、道義的な意味を含め、参加してようとする市町村長がいる。しかし、沖縄の基地県外移転の打診のよきのように、多くは過剰ともいえる地域住民の反対と地域エゴの前に実現できないでいる。
 
阪神淡路のときに、多くの瓦礫を県外で処理してもらいながら、今回の震災瓦礫については放射能汚染への恐怖心から、絶対反対と当然のように激高して反論するおバカ市民たちがいる。すでに受け入れを決めている自治体の住民に恥じることを知らない。
 
自分たちの生活権さえ守られれば、被災した地域の生活権はどうでもいい…そう平気で考える国民、市民がいるのだ。マスコミがきれいごとのように流す、震災美談や絆、心をひとつにといった美辞麗句が実際にはまったく無力なのをこのことはよく象徴している。
 
こうした人々は、これまで自分たちが湯水のように使っていた電力が、原発を受けれた一部の地域の犠牲の上に提供されていた事実にも無頓着だったに違いない。山間の集落の生活権、定住権が奪われて、自分たちの水資源が確保されている事実にも無関心なのだろう。アメリカの核のもとに、自分たちの安全保障が守られ、同胞の命を犠牲にしない代償として、40年もの間、沖縄だけを犠牲にし続けてることへの自覚もない。つまりは、無知・無教養。
 
いつもいう。無知であることは、それ自体、罪なのだ。

キレイごとのように、同じ国に生きる者同士の助け合いの意識が欠けているとか、それを持たなくてはと、通じない道徳観や倫理観などを持ち出す気はない。無知無教養の人間にそんなことをいっても通じない。
 
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、てめぇらの生活している地域は、てめぇらの力だけで成立していのではない…ということだ。食においても、エネルギーにおいても、社会保障、安全保障においても、すべて他の地域との関係が協働の中で成立している。自分たちの地域だけが守られていれば、自分たちの生活権が成立するのではない。
 
自分たちの生活権しか主張できない地域には、東北からの食材も、エネルギーも、あるいは、そうした地域を支えている他の地域からの食材も、エネルギーも物流も遮断してしまうことだ。そうすれば、自分たちの暮らしが、いかにひ弱で、他者にすがってしか成立していないことがわかるだろう。
 
他者が犠牲になるのは当然と考えるなら、原発を自分たちの町に受け入れ、自分たちで農地を耕し、漁業畜産をやって自活の道を歩むことだ。自分たち手を汚しもせず、自分たちの生活の安全だけを主張する…
 
もう一度いう。沖縄への恥を知れ、瓦礫を受けれた地域住民への恥をしれ。