秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ひとりひとりの願い

被災地で、小中学校や高等学校と地域住民、支援団体が一緒になり、いろいろな取り組みがされている。
 
被災した沿岸に花を植える。残された壁面に鮮やかなペイントを施す。あるいは、地域の伝統文化や遺跡遺構、寺社仏閣の歴史を掘り起こす。伝統芸能に参加し、地域の文化を継承する…

過剰流動性の到来とともに、人々は記憶から消しかけているが、地域共同体の要にあったのは、学校・郵便局・医院・信用金庫。そして、飲食店を含む商店街だった。
 
それらは、地域コミュニケーションの基点であり、それによって地域の祭りや行事が継承されていた。そのイベントによって地域の子育て、地域教育が生まれ、高齢者や単身生活へのサポート、子どもや高齢者への見守りと見廻りも成立したのだ。そうした中で、地域は人のつながりを維持し、葛藤や対立があれば、修正し、回復させた。
 
地域の行事やイベントは、他の地域の人々に開かれることで、また、地域間連携、つながりのツールともなっていた。ややもすれば、閉塞する域内コミュニケーションの危機をそうやって回避もしていた。
 
これられを総合して、地域力という。

だからこそ、これが成立するためには、教育・福祉・生産・加工・消費を含め、域内が動いていないといけない。当時に、その動きが他に発信されていないといけない。

しかし、東日本大震災はそれらを奪った。だが、奪われたからこそ、見えるものがる。果たして、自分たちの地域が人のつながりを始め、地域力をどう維持し、それが衰えないために、どのような努力をしてきたのだろう…という問いだ。
 
いつからか流動性を受け入れ、少子高齢化に歯止めをかえるような努力も、見守りや見廻りといった他者への関与、地域を生かした生産加工への挑戦、それら地域の魅力を誇りを持って、外へ発信する努力と工夫…
 
それをやっていたのだろうか…という問いだ。
 
恒常的となった、人の流出入を否定するのではなく、その中で、どう地域共同体を成立されるか。行政区画や組合といった、ある意味、既得権と行政依存を基本としたシステムにある共同体から、人の流出入に適応する、人のつながりを軸とした、新たな共同体の創造に取り組んできただろうか…という問いだ。

昨日、いわきの被災した豊間・沼ノ内・薄磯地区にある豊間小学校の学習発表会を取材させてもらった。二つの区がわずかな世帯を残して壊滅した。地元に残れた人々の方が少ない。
 
総合学習のひとつとして、学年1クラスしかない5年生20名弱の子どもたちが2班に分かれて映画をつくった。M校長先生の応援もあって、地区の人々、外部の映画制作会社、地域の取材を続けている行政からの嘱託スタッフのSくん、そして、保護者会が協力した。

子どもたちの心に、あのときの記憶、あのときの恐怖とその後の失意の記憶はまだ残されている。明るく、元気な姿の向こうにそれがある。
 
「映画をつくって、あのこわさと向き合えるようになった?」と声をかけた子どものひとりは、間髪を入れず、「ううん!」と首を振った…。そして、こちらから問うてもいないのに、あのときの体験を息もつかず、話した。
 
私は、思わず涙があふれそうになった。家族の安否もわからず、丸1日、当時、小学校3年生の彼は数人の仲間と小学校で過ごしていた…。
 
リーダーのひとりは、大人びたきちんとした語り口でいった。映画と向き合うことで、もう自分たちの地域にはなにもない…と地域を見失いかけていた気持ちと改めて出会った。でも、いまは、豊間に生まれ、ここに育って生きていることを誇りに思います…

ある少女はいった。映画をつくってから、いままでより、もっと豊間のことが好きになった…。私の映画「誇り」に登場するドラマの少女のセリフと同じものだった…。

最初から大人たちがこうした子どもたちの心の変化を期待したのではないだろう。だが、総合学習で映画づくりを選択し、地域の大人、外部の大人たちが様々なサポートをする中で、ひとつのイベントが子どもたちの心に自信を与え、あるいは、まだ癒されていない自分の心の傷、不安やおびえをしっかりみつめさせている。
 
子どもを思う地域の心が、知らず知らずにPTGを実現している…。
 
それができているのは、ここにまだ、地域力の底力が残されているからだ。それは、もしかしたら、あの津波によっていのちを奪われた人々、ひとりひとりの願いでもあるのかもしれない…。

私は27日、また彼らに会にいく。