秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

おぼっちゃま おじょうちゃまくん

理想をもてない人…理想を読み違えている人…理想を持ちながら、それを信じることができず、歩めない人…という人たちが世の中にいる。

大仰な理想はないが、普段の生活さえ、ことなきをえられればそれでいいと、日々の暮らしが安心・満足であることを理想にする…という人たちも世の中にいる。

あるいは、近隣諸国や国際社会から非常識さや危うさを指摘され、どのように批判されようとも、思い込んだ頑ななナショナリズムや手前勝手な歴史解釈が正しいのだと、世界史からみた自国史を拒否し、みつめられず
 
つまり、自国や偏狭な愛国心を世界の眼と、地球という自然界や宇宙の眼という対象化した視点でとられられず、自分が考える国家の実現のためには、国民、市民、これからを生きる若者や子どもたちのいのちを犠牲にできるという、おバカな理想家もいる。
 
そのときには率先して自己犠牲もせず、ロートルの自分たちは痛みをえないところで、アホを唱える、かつての軍閥のようなおバカな理想家=政治家もいる。
 
それらは、おしなべて、「理想」というものを知らない。
 
理想というのは、自分のための「なにか」を実現することではない。それは、我欲というのだ。理想と我欲を取り違えて、あたかも万民の理想のごとく語る。国際社会の危機を煽る。

我欲だから、数や富、権力という力に物を言わせて他を押しのけられる。我欲だから、非常識な手段や情報圧力、表向きの正論を騙って、実現しようとする。
 
我欲と見抜かれないためだ。それが我欲からのものであると自らが意識しているからだ。人類普遍の理想ではないことをじつは、よく知っているからだ。

同時に、我欲が生まれるのは、それでいい思いができるからなのだ。

よく考えてみたまえ。福島の原発事故がありながら、経産省官僚と政治家たちが原発の必要性を唱え続け、現実にそのように生活者を追い立て、福島をなかったことのように素通りしようとする。
 
そこには、50年という原発政策の中で、この国の政治がつくった利権があるからだ。無知であったにせよ、同調した国民がいるからだ。天下りであり、選挙支持であり、札束であり、代償としてえられるはずだった、疲弊した地域の活力回復だ。

そして、アメリカの軍需や原発によって既得権と利権をえている超リベラル派の圧力が裏にある。これに便乗しているこの国の財界の圧力がある。いわく、原発なくして国の経済成長はない…笑止千万。

理想とは独立自尊、自由自治と公民社会、地球市民社会における一員としての自覚=社会貢献意識と責任を基本としていなくては生まれない。つまり、他に利することがその基本なのだ。

この国は、その理想を失いつつある。圧力や弾圧や規制や情報操作の力よりも、はるかに理想の持つ力の方が大きいことを忘れている。

それは、理想が一見、じつに脆弱にみえるからだ。理想を持ち、その実現に挑むことは自らが犠牲と忍耐と変化と成長を要求されるからだ。他に、犠牲と忍耐と変化と成長を要求し、自らはそこに手を染めようとしない。だから、力が唯一の手段になってしまう。
 
九州の炭鉱町の近く、半島とわずかな距離で、いつ戦争にじかに巻き込まれてもおかしくない米軍基地の町で育った私は知っている。
 
麻生炭鉱で起きた300人イギリス、オーストラリア捕虜の強制労働とその死。朝鮮人強制労働の現実。その後もいまも続く、福岡を中心とした九州北部につづく、在日との確執。常磐炭鉱のあったいわき市でも、人の入らないような繁みの陰に、人知れず「朝鮮人強制連行労働者慰霊碑」の名前も知られない人たちの墓碑がある。
 
昨日、河野談話が基礎とした事実がまことだったのかの検証をするという…笑止千万。河野談話はまちがいただったと情報操作したいだけではないか。まるで、福島原発は収束したとウソをいった政治家たちのように。

この国のかつての戦争とその後に起きたことも知らない、おぼっちゃま、おじょうちゃまくん。福島の痛みを知ろうともしない、おぼっちゃま、おじょうちゃまくん。キミたちがつくる国と理想には付き合えない。