秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

目指すべき道は変わらない

このところ、オレの周囲ではいろいろな変化が起きている。直接、オレ自身が関与しているわけではないから、特段、オレ自身に影響があることではない。
 
しかし、宇宙のカプセルからそれを眺めていると、人の時間と意識いうのは、本当に生生流転。変わるこのだな…と思う。
 
縁の深さの違いはあれ、自分と人とが何がしかの関係を持ち、一定の時間を共に過ごす空間の中にいれば、当然ながら、その変化の兆候は読み取れる。オレは子どもの頃から、そうした変化の兆候に敏感だった。敏感というより、不思議なことに、変化がくるぞ…という信号が勝手にどこからか送られてくることが多い。
 
オレの好きな映画、韓国版「イルマーレ」という映画の中に、「咳と人を恋する気持ちは、人に隠せないのよ」というセリフがある。別に、信号がなくても、人と人との関係において、いままでと違う様子や雰囲気が生まれれば、よほどのKYでない限り、「おや。いつもと違うぞ…」という察しくらいはつく。

そうした感覚を感じていると、現実に、意図しなくても、そうした事実や風景にふれるということが起きる。ああ…あのサイファはこういうことだったのか…とそこで知らされる。

しかし、おしなべて人は、自分に起きている変化を人に知られたくないらしい。そこにはいろいろな事情があるのだろう。だが、あからさまにできない…というのは、どこかに邪さや危うさ、知られては困る悪しき要素が含まれているからに違いない。だが、結局は、それによって周囲の人間を欺く結果になる。
 
オレのように面倒くさい人間は、そういうことは全部ぶっちゃけて、いろいろな軋轢や対立があってもすっきりしたい方だが、どうやら、人にいわせると、そう考えるオレは特殊らしいw なので、そうした様子が見えるときは、あえて、こちらから、あれこれ紐解くとはしないようにしている。
 
どういう結果や結論にせよ。変化したいからしたのだ。「人が心に思うことはだれにも止められない」と結論づけるしかない。そのことで受ける不利益や不都合、批判は、そうした人間が引き受けていくしかない。

オレがちょっと変わっているといわれながら、人の動きや変化をそんなふうに考えてしまうのは、オレ自身を生活の勘定の中に入れていないからだ。執着がないのではない。自分の生きる場所をそこだと考えていない。執着は別のところにある。
 
オレが影響を受けた、ある作家がこんなことをいっていた。
 
「物書きというのは、自分を勘定に入れたらいい作品はつくれない。どちからかといえば、生きている人間の側ではなく、死んだ人間の側から人や物事を見ていなくては、本来、人は描けないのだ…」
 
FBを始めて、まだ1年と4か月あまりだが、その中でもいろいろな変化があった。そして、いまも変化は続いている。オレのMOVEの仲間にもいろいろなことが起きた。関わり方の違いも生まれているし、変化を感じて、いろいろな思いを抱いている連中もいるだろう。
 
しかし、死んだ人間の側…オレ流にいえば、宇宙の闇からみつめていれば、目指すべき道は、変わらない。