秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無駄な存在証明

たえとば、「監督です」という紹介のされ方をし、映画や映像関係の人間たちの輪の中にいると、当然ながら、この人は映画の監督なのだ…という理解のされ方しかしない。テレビの世界では、おおよそ、ディレクターや演出という言い方しかしないからだ。
 
たとえば、それが人権や社会問題を扱う作品の監督という認知のされ方をすると、今度は、この人は社会派の監督で、メジャー映画やテレビとはつながりのない人なのだという理解のされ方しかしない。おおよそ、社会派といわる監督は、メジャーに背を向けるか、メジャーにいけなかった人が多いからだw
 
まして、舞台演出もやるとか、戯曲も書くとか、社会貢献のためのNPO法人を仲間と立ち上げているとか…といったことは見えてこない
 
また、あるいは、監督だという理解のされた方をすると、この人はクリエーターではあるかもしれないが、企画やプロデュースをやる人でも、会社を経営する人でも、社会評論や小説を書く人でもないという了解のされ方をする。
 
人は、どうしても○○である…という一つの顔でしか他者を理解しようとしない。〇〇であるという一つの理解がないと、この人はいったい何者なのかという疑問の中に身を置かなくてはならず、相手とどのような関係を築かなくてはならないかの方向性が見えなくなるからだ。
 
そうなってしまうのは、その人が肩書や帰属、学歴、社会的な立場や位置によってしか、人を理解する手掛かりを持っていないためだ。

オレは人と初めて会ったとき、名刺などもらっても、その人に何の肩書があるか、何に所属しているか…といったことにはほとんど興味がない。それよりも、その人は、いま何ができるのか…これから何をしようとしいるのか、そして、どういうキャラクターななのかに強い興味がある。
 
たとえば、郵便配達員をやっている人がいたとして、その人が郵便配達をやっていることよりも、ブログをやり、FBをやり、果ては、アプリまでつくれる人…ということの方が、その人の存在がよくわかる。数年後には、郵便配達員をやめて、ITビジネスに関わろうとしている…という方がその人のいまとこれからがわかる。それでいながら、まだ踏み切れず、ちょっといじいじしている…という方がその人の内面がわかる。
 
人が社会に帰属するその帰属のあり方というのは、所詮、断片であり、一面に過ぎない。だから、長く会社勤めをやり、退職をすると、帰属関係が切られ、何をしていいのかわらかない…という人も多くなる。あるいは、リストラや倒産などで帰属を失うとどうしようもない不安に襲われる。つまり、自己の存在証明をひとつしか持てないからだ。

また、逆に、オレが映画の衣裳部に頼んで、郵便配達員のカッコウをして、白昼を歩いていたとする。配達員なのに、自転車にも乗らず、徒歩でミッドタウンの中を歩いていても、多くの人は、オレは郵便配達員なのだ…という理解の仕方しかない。いや、違和感や齟齬があっても、それを呑み込み、この人は郵便配達員なのだ…と思い込もうとする。その方がひとつの信号だけで、安心だからだ。
 
つまり、その人が本当は何ものであるかは、名刺を交換しても、FBで友だちつながりになっても、あるいは仕事や何かの集いでよく顔を合わせていても、実は、理解できてなどいないのだ。証明さえされていない。
 
この構図を逆手にとっているのが、オレオレ詐欺など、所在不明のままでありながら、だれもが認知しうるひとつの肩書、存在証明を発行すると、簡単に、その人はそういう人なのだと思い込まされる。
 
他者との関係が肉親といえども、果てしなく表層的な関係になればなるほど、逆にあてにならないひとつの存在証明に人は寄りかかろうとする。そこをつかれて、詐欺や怪しいオカルトや占いにはまる。

つまり、オレのいいたいことはこうだ。存在証明そのものが意味がない時代になってしまっているのなら、存在証明そのものを無化した方がいい。人との出会いのこれまでの手順や手続きにこだわらず、「あなたは何ができ、何をしたいのか。そして、何ができていないのか」に肉薄してしまった方が確かだ。

そういう会話のない飲み会や集いは実につまらない。無駄な存在証明をやたら、発行したがるやつらが多すぎる。
 
語るなら、確かなことを語れ。