秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

オレの息子はできた、いい男だ

もうじき5月の連休。いつもながら、連休とは縁がない。
 
いま就活をやっている息子が小学生の頃、なんとか一日くらいはと思い、箱根に家族を連れていったが、一泊した翌日、芦ノ湖で仕事の連絡が入り、ひとり、東京に打ち合わせに戻る…といったことが普通だった。
 
事務所を開設してすぐのころは、なかなか家に帰れず、なんとか時間をつくって、ス―ツ姿のまま、よみうりランドで息子と嫁さんと合流し、幼すぎてジェットコースターにはまだ乗れなかった息子と二人、狭い池をただ自動的に周回するだけのボートに乗った。
スーツ姿のままで、しかも、ほんのわずかの時間しか近場の読売ランドに連れていってやることしかできない自分がせつなくて、涙が出そうになったのをいまでも覚えてる。
 
これも小学生の頃だが、新宿の駅前で夕飯を食べる約束をして、久しぶりに会った息子が、母の手をほどいてオレのところに、無心で駆け出してきたときの光景も眼に焼き付いている。
 
父親として、夫として、してやらなくていはいけない当然のことをオレはしてきていない。その多くは自分の身勝手さとわがままだ。
 
しかし、どこかで自分の家庭を犠牲にしてもやらなくてはいけないことがある…オレはそう思ってしまう男なのだ。そのために、周囲にはずいぶんと迷惑と心配をかけているし、それもよくわかり、申し訳なく思っている。が、自分だけが安穏と家にいることに罪悪感を覚えてしまう。結果、家庭生活のない生活を選ぶことになってしまった。
 
あなたは不良少年なのよ…とある年配の深い信仰を持つ尊敬する女性にいわれたことがある。一緒に暮らした女性には、あなたは家庭に向かないのよ…と異口同音にいわれたw オヤジには、おまえが家庭を持って子どもを育てている姿がどうしても目に浮かばない…とまでいわれたw

その通りなのかもしれない。だが、世の中には、人の普段の営みを遠くで見守り、それを守り、よりよくするために生きなくてはいけない人間もいるのではないのだろうか。そのことによって、普段の営み、人並みの幸せはえられなくとも、その代り、そうして生きることの喜びはえられる。
 
そして、勝手な言い分だが、そう生きている父や男でいてくれることで、自分たちの普段の満足はなくても、誇りに思うことはできるのではないだろうか。それは、男の身勝手、自分のわがまま。だが、その代り人並みの時間はない。

この間、息子が就活の相談もあって、事務所にきた。飲みながら、こんなことをいった。「オレはさ。就職して、25歳までに結婚して、子どもをたくさんつくるんだ」。
 
奴はわかっている。自分がえられなかった兄弟、家庭の温かさを自分の手で早くつくりあげたいのだ。やはり、オレの息子はできた、いい男だ。オレが奴に遺せるのは、せめて、こんなバカオヤジでも、人のためにはがんばったという、誇り。