秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

その次の、その先

このところ、朝から午後、夕方近くまで外回りが多く、午前中のルーティンワークにしていたブログの更新が遅れ気味になっている。
 
よく、ブログをどのくらいの時間で書いているのですか…と聞かれることがあるのだが、日常雑記のようなものは30分もあれば、書き終えるし、多少、論理性を求められるものでも、1時間もあれば、終わってしまう。
 
しかし、朝から外となると、落ち着いてPCに向かう時間もない。
 
さらに、FBも始めてしまって、いい感じのコメントや提言があると、つい反応してしまう。自分の嗜好に強くリンクするものもあれば、貴重な意見も少なくない。そうしたものには、誠意を持ってコメントを返したい。
 
で、2・3時間があっという間に過ぎてしまうということにもなる。
 
以前、絵描き・物書きの卵(とはいっても、いまは地方新聞に挿絵も提供するプロ)のMKちゃんに、秀嶋さんは時間を無駄にしていると叱られたことがある。「そういう時間があるなら、もっと本を書く時間に割けばいいじゃない!」。
 
確かに。
 
しかしながら、オレにとって、書くということは(映画や舞台を含め)、人を知ることと密接に結びついている。そこから学ぶことは、実に多い。そして、実におもしろい。
 
また、何を、何のために書くのかという点において、オレはMKちゃんばかりでなく、小説家や評論家、シナリオ作家、映画監督になりたいという人と志向もスタンスも違う。
 
ただ物が書ければいいのではない。ただ自分が作家と呼ばれればよいのでもない。文字や言葉、映像の中で完結すればいいのでもない。その次の、その先を希求しているし、その次の、その先のために、文字や言葉、映像を必要としているに過ぎない。
 
社会イベントのプロデューサーもやれば、演出もやる。もともとは舞台出身だから、舞台作品の脚本や演出もやる。基本的なメシの種になっているのは社会教育映画や人権啓発作品の監督。
 
そればかりでなく、劇場公開映画や2時間ドラマのプランニングもやっている。間隙を縫って、シンポジウムや講演、そして、評論も書けば、小説もコツコツ書いている。
 
それは、生活のどのフェーズからでも、オレのメッセージを伝えたいからだ。ひとつの固定した肩書や属性の縛りの中で、何事かを表現する不自由さではなく、縛りのない中で、どこでも、いつもで、だれにでも、どのようなツールであれ、手法であれ、コンタクトを続けたい…と願っているからだ。それが、ときに反発や違和感、場合よっては、反感や嫌悪感を抱かれようと。
 
人を評する、あるいは理解するときに、人はよく、「この人はこういう人だ」というカテゴリーの中で人は人を理解したがる。
 
典型的なのはビジネスカード。そこにはその人の所属団体や肩書があり、その人はこういう人だという証明にされる。しかし、社会学の視点でいば、どこにもその証明はない。しかし、それを明確な証明であるかのように人は認知したがる。それは、実は、あいまいであることへの怖れがそうさせている。
 
あるいは、ある社会問題を考えるときに、家庭、地域、社会、国、民族、宗教といったジャンル別の中で、議論をしたがる。ひとつの家庭で起きた事件、あるいはひとつの事故。それを社会総体の問題、あるいは、国、地球全体の問題として検証するよりは、個別の事案、事例として議論したい…という「不自由さ」への欲求がある。
 
今日のように人の帰属性と帰属意識があいまいになれば、なお、人は、「この人はこういう人だ」という拠り所を求める。他者や事件、事故を読み解くときに、これはこのジャンルの問題である、人であるという括りを設けて、安全と安心を担保する。
 
あるいは、逆に、それは特異なこと、異常なこと、ありえないことして、自分とは無縁なもの、いっちゃっているものといった類型にして、カッティング・オペレーションする。
 
「私は作家である」という存在は、狭窄した、その不自由さの中に自らを置くことでしかない…とオレは思っている。そして、「私は作家である」とされたときから、その人は、作家以外の何物も表現する自由さを奪われる危険がある…とオレは認識している。
 
実は、だれもがわかっている。「私はこういう人だ」「この人はこういう人だ」という自己完結する存在など、どこにもない。あるときは女性教師であり、あるときは母親であり、あるときは妻であり、あるときは女であり…といった果てしなく終わりない存在としてしか、人は存在しない。
 
鶏が、あるときは、卵であり、あるときは鶏であり、あるときはフライドチキンであり、あるときは焼き鳥であり、棒棒鶏であり、あるときは鳥インフルエンザであり、あるときはその媒体であり、あるときは、感染し、破棄される死骸であるように。
 
だとすれば、そのフェーズのどこにおいても、共通する何者か、何事かでない限り、その人が表現者足りえることはできない。そればかりか、単なる入れ替え可能な、何か書き物らしきことをしている、だれかでしかない。
 
それは表現者でなくとも、こういう仕事をしているらしい、だれかでしかないように…。
 
だが、人は、生きるということにおいて、すべての人が表現者だ…とオレは思う。ならば、人は生きるということにおいて、自己完結してはならない。その次の、その先のためにどう生きるかを考え、行動しなくてはならない。