秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

第二ラウンドのゴングが鳴る

人というのは、わかりやすい。人にもよるのだろうが、近しい中になれば、政治や宗教、思想、信条、言語、民族、歴史の違いがあっても、仲良くなれる。
 
いやいや、オレは政治や宗教、思想、信条、あるいは信念の違う奴とは仲良くなんかなれない…という人もいるだろう。しかし、こと、「生活者」ということころでつながると、ことのほか、思いのほか、人は仲良くなれるものだ…とオレは思う。
 
たとえば、会社で、いやな上司や同僚、得意先がいて、その人と仕事、職場、会社という社会的属性だけの世界で仲良くなろうとすれば難しい。当然ながら利害関係があるからだ。
 
だが、もし、相手が通常の心根を持つ人であれば、生活者の話題…たとえば、子どもの進学のことや親の介護のことといった話題、出身地・郷土の話題、あるいは好きな野球やサッカーチーム、選手の話題、好きな音楽やタレントの話題となれば、会話すること自体、難しくはない。これは、国の違い、民族の違いはない。
 
人と人の距離を阻むものは、基本、それぞれの社会的立場や帰属している団体など位置関係によっている。つまり、人は大方、生活そのものではない、社会における存在のあり方、位置の取り方に左右されているのだ。
 
わずかばかりの期間、サラリーマン、企業役員をやっていた頃、時間がなかったせいもあるが、それまでプロ野球をテレビで見ることもなかったオレが、その日の結果だけは毎日チェックするようになった。得意先、担当者と会話するとき、出身地と野球の話題は、あたりさわりないばかりか、打ち解けあうのに便利だったからだ。オレが歴史好きで、地域の歴史に比較的詳しいということも有利だったかもしれない。
 
拙著「思春期のこころをつかむ会話術」でもふれているが、子どもと親との関係に限らず、大人同士でも、意味のない会話というのは実は重要。意味のある会話をしようとすると、そこに社会における存在、位置が言葉の軸になる。しかし、意味のない会話、つまり、同じ生活者という軸で話をした方が、互いのことを知る力になるのだ。
 
この世に生まれてきて、だれひとり、不幸せになりたいと思って生きている人はいない。周囲の人とも仲良くなりたいと願っている。そして、毎日、すがすがしく、笑顔で生きてきたいのだ。しかし、それができない多くの要因は、社会的な帰属や位置関係を人とのつながりの基本にしようとしているからだ…とオレは思う。
 
生活者=同じひとりの市民…というところに立ち返れば、自分がされていやなことは人がされればいやに違いないとわかる。同じ生活者なのだから、力を寄せ合おうという気持ちにもなれる。大事なのは、帰属した社会ではなく、ひとりの生活者としてどうつながり合うか…ということなのだ。
 
この国は長いこと、そのことを忘れている。それが地域共同体の力もそいできたし、家庭、学校、企業の姿も歪にしてきた。成果主義をただ単純に目に見える数字、社会的な評価、世間の眼にしか置き換えてこなかった。
 
生きるということは、だれでも同じ悲しみがある。同じ苦しみがある。そして、同じ喜びがある。その現れる姿、形、時期が違うだけに過ぎない。それくらい、人というのはひとりの生活者に立ち返れば、結びつき合えるたくさんの要素を持っている。
 
市民協働主義社会というのは、簡単にいえば、そうした社会をつくろうということだ。忘れている日本人の力の源泉を取り戻そうということだ。この視点に立てば、政治も経済も、教育も、エネルギーも…どういう方向へ向いて進まなくてはいけないのかがよくわかる。
 
明日からいわき市にいく。MOVEの第二ラウンド。そして、あとひと月もすると第三ラウンドのゴングがなる。それ自体はオレの本業ではない。しかし、そこで発しているメッセージがいつか本業になる。そう確信している。理由はない。ただ、そう導かれていると感じているだけだ。
 
ジョーだって、なぜリングに上がるのか…の理由はなかった。ただ、そう導かれていただけだ。コングが鳴れば、リングに上がる。それが男ってもんさw