秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

遠野の白木蓮

この間、いわきで、山間部の遠野に向う途中だった。
 
湯本では7分咲にはなっていたのに、遠野ではまだ、桜はほころびはじめたばかり。わずか車で30分程度のところなのに地熱のある温泉地とわずかな標高差でこれだけ違うのか…と頭の隅で思いながら走っていると、満開の白木蓮の木に出会った。
 
実は、オレは爛漫と咲く桜よりも、静謐な一本の幹のまま、立ち尽くすように花を咲かせる白木蓮が好きだ。しかも、散るときは花びらの根本から一気に散る。残り花をしない。その白の極地ともいえる美しさと散り際の潔さに惹かれている。自分の人生もそうありたいと願っている。
 
車を止めて、しばし眺めようかとも思ったが、約束の時間ギリギリで他にも回らなくてはいけないところがあり、それをすることはできなかった。

もともと頼まれて、劇場映画のコンペ企画で書いた、「蜃気楼の彼方に」という恋愛小説の原案がある。そこで重要な役を果たすのが、この白木蓮上海市の市花になっている。確かに、いまのようなハイタウンになる前の時代、きっと租界地上海には白木蓮が似合っていただろう。いわば、上海という街の心根をあらわずパッケージは白木蓮しかなかったのだ。
 
物語にはキーワードがいる。象徴がいる。そして寓話がいる。それらがうまくパッケージにされていい物語ができる。すぐれた作品というものはそういうものだ。象徴や寓話をみつけるために、国内外の古典や歴史を学ぶことの大切さもそこにある。
 
いまだけを見ていても、いいものはできない。いまだけを追いかけていては、未来もみえない。過去が残した既知のものに未来への遺産がある。アヴァンギャルドもそこからしか生まれない。思いつきや流行りに乗っていては何事につけいいものはつれない。

作品の趣味趣向はあるだろう。だが、作品の質とはそうしたところで決まる。個人の趣味は関係ない。趣味に合った作品しか読めない人は、いい作品を見抜く力はない。つくり手は常に自分を勘定に入れてはいけない。オレが、オレがの人に「人間」など描けるはずがない。
 
という自戒を続けながら、MOVEのITセミナー以後の次の取り組み、NPO法人としての事業の企画書を練り、映画のシナリオ2本のシノプシスと格闘としている。うかうかしていると、今年の秋に予定している市民祭の準備が始まる。
 
煮詰まってしまっては…ということで、急きょ今月徳島にシナリオハンティングにいくことにした。来月はITセミナーのあと、これも別作品のため、いわきでシナリオハンティングをやる。
 
ふと気づけば、すべてだれかに頼まれた話ではない。いまこれが世の中には必要だ…という思いだけで取り組んでいる。だれもやらないからやっている。金がなくてもやっている。力がなくてもやっている。それが、わずかな数でも喜んでもらえることなら、やるしかない。
 
遠野について、ITセミナーの説明をして帰ろうとすると、担当の方が、「郵送でもよかったのに…遠いのに、わざわざ…」といってくださった。こちらの思いがそんなわずかなことで伝わるなら、本当にありがたいことだと思う。
 
木蓮は、きっとそんなひっそりとした言葉に喜び、花を咲かせ、そして、ひっそりと散るのだ…