秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

利己的な脳

人生、裏切りというのは常につきまとう。
 
しかし、いつも脳の話をするときに持ち出すことだが、それが裏切りであったかどうかは、どのようなものであれ、実は、不明のままだ。

人間は自分の身に降りかかる出来事を客観的に判断しているような気になっている。しかし、どうがんばってみても、あがいていみても、人は無限に客観的であることはできない。
 
なぜなら、ある出来事を客観的、かつ冷静にとらえていると判断しているのは、自分の脳でしかないからだ。いうまでもなく、脳は個体の安全と安心のためにのみしか機能しない。つまりは、脳にとって都合のいいようにしか、現実を認識しないし、把握しない。
 
客観的であるかのように、見えたり、理解できているように思えているのは、あくまでも、のようなものに過ぎないということだ。つまりは、不確かさと不明性の中でしか、実は、人は生きられない。
 
だから、人は不安や怖れ、怒り、悲しみといったものと常に出会い、かつ向き合わなくてはいけない宿命を持っている。
 
これこそが自分の、私の確かな道だ…と思っていたものが、実は思い込みに過ぎなかったという現実や他人が自分をこのようにとらえてくれているに違いない…と思っていたものが、実は、勝手な予測に過ぎなかったという事実に向き合わざるえなくなるからだ。そこには失望、傷心、落胆、そして憤怒といったマイナスなものしか生まれない。
 
最近の多くの人は、このことを直感的にわかっている。だから、そもそも他者を深く信頼したり、尊敬したり、愛したりしない。いつそれが反故にされるかわからないことを知っているからだ。そのために、また、逆に深く人を信頼し、尊敬し、愛する方法を知らない。その築き方を学んでいない。エネルギーをそこに使うことすら、惜しむ。

孤独な脳が直面する不安や怖れ、怒りや悲しみといった姿も憐れむべきものだが、だからといって、信頼や尊敬、愛の築き方を知らないことは、きっともっと憐れむべきことだろう。
 
この世には自分の都合のいいように人を利用する人間とされる人間がいる。自分の都合でしか動かない人間と人の都合で動かされる人間がいる。あるいは、損得でしか物差しを持たない人と損得の物差しそのものを持たない人もいる。権威にまたがるものもいれば、権威そのものを否定する人もいる。

自由であるためには、そのいずれにも組みしない道しかない。それをマザーテレサが語っている。ちょっと長くなるが引用しよう。利己的な脳の限界とそれを越える術を教えている。
 
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