身を削ってこその志
数日前、ある大手企業の経営陣の一角を担い、いまも要職にある、ある方にSocial Net Project MOVEへのお力添えをいただこうと連絡させていただいた。すると、役員秘書の方からアポイントの御連絡をいただき、普通なら、なかなか通してもらえない役員応接室に招かれ、丁寧にご教授をいただいた。
お話を伺ううちに、社会的な地位や立場を越えて、その方にある、ある志のようなものを強く感じた。しかし、それについて、うかがうことは、あえてしなかった。その方もなぜ、オレがこうした活動に身を投じているかといった理由は問われなかった。
お話を伺ううちに、社会的な地位や立場を越えて、その方にある、ある志のようなものを強く感じた。しかし、それについて、うかがうことは、あえてしなかった。その方もなぜ、オレがこうした活動に身を投じているかといった理由は問われなかった。
人の志…その形や由来を問いかけることにあまり意味がない。互いがその志に共鳴するかしないかが大事なのだ…とオレは思う。
だが、人はえてして、「なぜ、あなたはそういう志を持ったのか」「あなたがいま、そうあることは何を要因としていのか」ということにこだわる。
だが、人はえてして、「なぜ、あなたはそういう志を持ったのか」「あなたがいま、そうあることは何を要因としていのか」ということにこだわる。
それは、そうした問いを持つ多くの人に、志というものがないからだ。あるいは、あったとしても、自身の行動や言葉として、それを具現化できていないからだ…とオレは思う。
志とは夢や理想、希望ともいえる。しかし、実は、他者と自分との関係をどう生きていきたいのか、自分にとっても他者にとっても、よりよいあり方とは何なのか…を考えることだ。そして、それを自分にできる範囲で広げ、人々にとってよりよき生活や暮らし、社会のあり方は何のかに向き合っているかどうかなのだ。
個人の名声や社会的地位、富や豊かさ、ゆとりばかりを求めている人は、志を持つことはできない。志とは、自分の身を削ることでしか、抱けない。「青年よ。大志を抱け」とは、若い奴ら、身を削れと置き換えられる。
では、何のために身を削るのか。当然ながら、自分のためではなく、だれかの、何かのためにだ。そのだれか、何かは、もちろん、人によって違うだろう。しかし、それは自分のため、自分の何かのためではない。
何度か紹介しているが、うちの会社名 For The One Projectは、その思いが込めてある。うちの会社がそうであるように、だれかの、何かのために、汗を流したこともあるが、同時に、だれかに、何かに、救われたこともある。
いろいろなものに救われて、自分がある。だとすれば、自分自身もそれと同じ何かが他者や社会のためにできなくてはいけない…とオレは思う。
余裕がある、経済的に恵まれている…からではなく、いまある自身の生活の中で、ささやかといわれることであっても、まず、取り組んでみる。その当り前の中に、実は、志は生まれるのだ。
だから、志というものは、あえて、つくりだすような質のものではない。おのずと抱かされてしまうもの…でなくては、簡単に、自身を費やせるものではない。
自身を費やせていないとしたら、それは利他よりも利己の心の強さが勝っているからだ。
自身を費やせていないとしたら、それは利他よりも利己の心の強さが勝っているからだ。