覚めた目
覚めた目…というのがなにかにつけ大事なのではないか…
作品をつくるときも、何事か社会的な事柄を批評したり、取り組むときも、常にオレはそれを思う。
よく、オレの語り口が熱意にあふれている…という言葉をもうらう。それは意図してそうしているわけではないが、何かをひとつにまとめ、それによって他者や社会にメッセージを投げかけるという場合、賛否両論あったとしても、必要なことだろうと思う。語る側の責任意識がそうさせる…ということもある。
が、しかし。語っているオレの方は、決して、情感に流されているわけでも、表層的な情熱に左右されているわけでもない。至って、脳は覚めている。覚めていなければ、なかなか人前で長時間にわたって語りおおせるものでもない。
覚めた目というのは、どこか冷たさを感じさせるときもあるだろう。あるいは、熱意や情熱が薄いのでは…と思わせるときもあるかもしれない。
確かに、オレは、何事かを語っているときは雄弁だが、プライベートな時間をだれかといるとき、問いかけらたり、意見の相違が生まれなければ、ほとんどしゃべらないし、何を考えているかわからない…とよくいわれる。
どこか本気じゃない…冷たさを感じる…。そういって去っていった女の子は少なくないw
人々が情感や情動に流されているとき、その渦中にいることがいかにキケンか。それは歴史が証明しているし、思春期の頃から仲間や先輩たちと芝居や学生運動のようなことをやっていれば、おのずと激情のもろさ、弱さ、薄さがわかる。
かといって、信頼できないからと自分の感情や情報に背を向けていては、人としての責任、生きることの意味が他者性に支配されてしまう。だったら、どうすればいいのか…
いま人が盛り上がっている、その先を見ることだ。盛り上がりの後、人々を襲う敗北や挫折、それゆえの対立や諍いに分け入り、敗北者の骨を拾い、対立を和合させ、無念の思いを現実に即した未来形で形にしてやることだ…とオレは思う。
震災から11ヶ月の11日。オレは徳島で、市民意識、公民権について語っていた。これまでのこの国の制度やシステムのあり方から脱却し、新しい道を求めるひとつとして、人権の問題を原点から考え直す…その必要性を伝えていた。
それは、これまでこの国の政治や人々が先送りし続けていた、解決されていない課題だ。それをいまやることが、震災から1年を迎える3.11以後の未来への布石になる…。そう信じている。
イベントをやることもいい。しかし、本当にやらなくてはいけないことは、その日だけにあるのではない。