さりげない一歩
人は人に、社会に押し出される…。
自分のこれまでの歩みを振り返ると、つくづくそう思うことがある。
オレはもともと、自分が表現したいと思う作品がつくれれば、それで人生、十分満足な人間に過ぎない。
それが、舞台であれ、CMであれ、教育作品であれ、社会映画であれ、DVDであれ、イベントであれ、シンポジウムであれ、講演であれ、著作であれ、自分に与えられた表現の場があれば、その器に応じて、自分が表現したいものを表現してきただけだ。
表現は、人を描くことだ…と考えているから、それがどのような手法やツールであっても、基本姿勢は変わらない。しかし、人に興味を持つほどに、この世の中に、いかにいろいろな人間がいるかを知らされてきた。そして、いつも心動かされるのは、厳しい条件、劣性の中でそれを跳ね返す人間力だし、不条理の中にいて、理不尽な出来事や処遇に置かれている人たちのことだ。
若く、幼い頃は、単に権力と非権力といった、単純な図式でそれを理解しようとしていた。自分自身が無知だったからだ。社会というもののあり方、人が社会をつくっているというドロドロした現実に直面するほどに、そんなにきれいごとで片付けられるほど、世の中も人もやわじゃないことを教えられ、学ばされてきた。
しかし、純粋でも、純潔でもない人の現実は、一層オレの心を引き寄せ、純粋でも、純潔でもない中で、笑ったり、泣いたり、悲しんだり、恨んだり、嫉みをもったり、嘘をついたり、ごましかしたり、自信をなくしたり、それでも、愛したり、愛されたがったり…、そして、傷ついたりしている人をとてもいとおしいと思うようになってしまったのだ。
しかし、純粋でも、純潔でもない人の現実は、一層オレの心を引き寄せ、純粋でも、純潔でもない中で、笑ったり、泣いたり、悲しんだり、恨んだり、嫉みをもったり、嘘をついたり、ごましかしたり、自信をなくしたり、それでも、愛したり、愛されたがったり…、そして、傷ついたりしている人をとてもいとおしいと思うようになってしまったのだ。
その純粋や純潔でもないことに、人の真実がある…といつか確信するようになってしまった。そうなると、より人を知ろうとすることになり、結局、人に会うために、自らその人たちのところへ足を運ぶということが当然となってしまった。
なにがしかメッセージや信号を発信して、何事かを共有したいとも願うようになった。それが、飲み屋ネットワークであったり、ブログネットワークであったり、FBネットワークだったりしている。通信できるツールであれば、そのあり方をオレは問わない。いつでも、どこでも、だれにでも…。それがすべての基本。
なにがしかメッセージや信号を発信して、何事かを共有したいとも願うようになった。それが、飲み屋ネットワークであったり、ブログネットワークであったり、FBネットワークだったりしている。通信できるツールであれば、そのあり方をオレは問わない。いつでも、どこでも、だれにでも…。それがすべての基本。
いろいろな思いもあってのことだが、ある新しいプロジェクトを起こそうとしているのも、そのひとつ。震災後、いずれ現地へいかなくてはと思っていたが、いくつかの手順を踏んでいた。時期がきたところで、最初に選んだのは、福島県。このブログでも、差別の問題を含めいろいろふれている。その次に、石巻、陸前高田、できれば、釜石まで足をのばそうとしている。
しかし、足を運ぶことが当然だという思いがあるから、それを大仰に、こうした活動をしていると具体的に広く、大きく公表しようとは思っていない。ただ、淡々と、自分にできることを、少しの無理をしてやるだけのことだ。
いまボランティア熱や被災地支援熱のようなものが広がっている。だが、熱はいつか覚める。単なる熱ではなくとも、思わぬ現実の前にたじろいだり、非日常に感覚が麻痺するということがある。
いまボランティア熱や被災地支援熱のようなものが広がっている。だが、熱はいつか覚める。単なる熱ではなくとも、思わぬ現実の前にたじろいだり、非日常に感覚が麻痺するということがある。
熱の怖さは純粋でありすぎることだ。
人の現実、人の死の現実というのは、人が思うほど、純粋ではない。所詮は人も、生き物のひとつに過ぎないからだ。圧倒的な現実の前に、純粋さとは、実は弱い。だから、心に深い傷を持つこともあるし、自分を問い詰めすぎることにもなる。それの苦しさが、そうではない人への過剰な怒りや否定へとつながることも少なくはない。
時間が経つほどに、熱ではなく、地道に、淡々と、まるでルーティンワークのようにやることの方が大事になっていくる。同時に、いま自分たちの生活の中での生き方やあり方を問われることも多くなってくるだろう。
本当に続けられる仕事、活動というのは、使命感や熱意を源泉とはするが、実際には、それとは遠い、覚めた目、覚めた感情のような気がしている。常に日常に戻すという冷静さだ。
本当に続けられる仕事、活動というのは、使命感や熱意を源泉とはするが、実際には、それとは遠い、覚めた目、覚めた感情のような気がしている。常に日常に戻すという冷静さだ。
これまで、いろいろな社会貢献事業や作品づくりにあたってきたが、帰結すのは、そうしたものが自分の中になければ、いい作品もつくれないし、いい活動にはなっていかない…とオレは思っている。
どこか冷たい。冷淡だ。という人もいるだろう。しかし、その覚めたところで、現実に取り組み、物事を進めることが、人の心や社会のしくみを変える力になる…とオレは思っている。
オレはよく人に語る。
オレはよく人に語る。
あなたが、ひとつの火の玉になり、それが100人、1000人のだれかにうつれば、その人がまたひとつの火の玉となって、だれかが人々の光となる。大切なのは、1000人全員が火の玉になることではない。自分の火の玉を確かに受けとるだれかひとりがいることが大事なのだ…。
そう考えられるためには、火の玉でありながら、その伝搬を計算できる冷静さがいる。見極めがいる。オレはFBでそうしたことを、実践している仲間と出会うことができた。愛とユーモアをこめて、「ウルトラ防衛隊」。それは貴重な宝だ。
人は人に、社会の出来事に押し出される。だが、その形は自由でなければならない。
Social Net Project MOVE。オレが立ち上げた市民交流プロジェクト。それができるのも、FBというツールと出会い、多くの人たちと議論をし、意見やジョークを交わしながら、互いへのリスペクトを育ててきたからだ。
いつか、そこから、これまで表舞台に登場していなかった人々が緩やかにつながり、新しい市民社会を形づくる…そんな時代をオレは妄想し、その一歩をさりげなく、みんなと踏み出したいと願っている。