秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

作法と流儀

久しく会っていなかった人から連絡をもらう。久々に出会う…というのは心地の良いものだ。
 
なにかゆえあって、疎遠になったり、連絡を取り合わなくなった…ということがあったとしても、その心地よさは変わらない。
 
オレは基本、人そのものを嫌うことはない。どのような人でも、受け入れようという姿勢と構えだけは崩さないようにしている。だが、その人の生き方、生きる作法や流儀は気になる。
 
時代や社会のとらえ方の底が浅い。周囲の眼ばかり気にしている。立場にこだわる。外見ばかり気にする。立場や年齢が下の者、力のない者を見下す。言葉の暴力を含め、弱い者を威圧する。同情や憐憫はできても、心を遣い、愛を尽し、共に生きることができない。
 
不満や愚痴ばかりこぼしている。物事を人のせいにし、自分を振り返ろうとしない。軽薄さと気づかずに、軽薄さを生きている。何事につけ、人間の可能性を信じない。人や社会に貢献する意欲がない。調子のいい立ち回り方をする。やけになって、間違いを起こす。自分の幸せだけが大事…といった生き方、考え方、行動が気になる。

気になるから語る。それで心地よいのかと。人としての矜持はあるのかと。そのとき、相手がそれを聞く余裕がない、パニックっている…というときは、多くは語らない。いずれ、何かの機会や人との出会いの中で、それを教えられるときがくると信じているからだ。

人がしばらく連絡をしない、とらない…というのは、いろいろな事情、感情がある。このままではいけない…と自分の課題に挑んでいるかもしれない。みっともない自分をみせてしまったと忸怩たる思いでいるのかもしれない。あるいは、あの人との縁はこれでおしまいにしようと、心の整理をしているかもしれない。
 
しかし、それはすべて心の葛藤を生きている。怒りにせよ、諦めにせよ…心に葛藤があるということは、人を成長もさせるし、振り返らせる。その結果、いままで気づけなかったことに気づけることもあるだろう。自分にはこうした生き方しかできないと、よりいままでの生き方、考え方を深めるかもしれない。
 
どういうところにたどり着くにせよ、人が自分というものと向き合った結果だ。それまで否定する気はない。

人はだれもが、幸せになるために生まれてきている。不幸せになるために生まれてきたのでもなく、人から理不尽な暴力や差別、排除されるために生を授かってのではない。

自分がそうされたら、いやであるように、人に対して、そうした不幸の芽を撒かないことが最低限の生き方の作法と流儀。自分のいのちをどう使うかは、人の自由だが、そのいのちを支えているのは、いい奴もいやな奴も含め、縁ある人たちなのだ。