秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

どのような死にも無念が残る

人には、その人がこの世で果たさなければいけないミッションが必ずある…とオレは思う。
 
それは特別、大仰なことではなく、子どもを産み、育て、自分が受けたいのちのバトンを子に渡す…ということでもあるだろう。仕事の中で、会社や組織のために、あるいは、社会の公益性のために、懸命に働くということでもあるだろう。
 
また、あるいは、余暇や休みを利用して、地域の活動や趣味を同じくする人々とふれあい、なにがしか互いを必要とする絆をつくっていく…ということかもしれない。

そして、ある志や夢を持ち、それを実現することで、人々や社会に貢献するということでもあるだろうし、才能や天分を生かし、笑いや娯楽、癒し、あるいは感動を与えていくということもであるだろう。

人のいのちに限りがある。だからこそ、人は努力するのだ…という言葉を聴いたことがある。
 
限りがあるからと厭世的にこの世を生きるのか、限りがあるからこそ、自分にできる最大のことをやり遂げようとするか。それによって、人のあり方も与えられるミッションも異なっていく…10年以上前、長岡市ホスピスを取材したときにもそれを強く実感した。

しかし、また、そのミッションを果たせば、その人がこの世に生きた意味も価値も遺せ、天から与えられた役割の終り、死が訪れるものだと思う。何事かを成し遂げた人の死を悼むのは、人の人情だが、人が使命を生きられる時間はそう長くはない…

御巣鷹山日航の事故で坂本九が亡くなったときにもそれを実感した。そして、この数年、オレが多感な高校生から大学生の頃まで、いろいろな影響や刺激、そして、感動を与えてくれた世代が亡くなっている。これから、そうした方の死はもっと増えていくことだろう。昭和と昭和の残像が終りの終わりを告げようとしている。
 
また同時に、志や夢を果たさせずして、無名のまま命を落とす人々も増えている。
 
小泉政権以後、この国の孤独死は、いま高齢者ばかりではなく、40代、50代に広がり、中には30代世代も登場してきている。その数、30,000人以上。同時に、30,000人以上の人が自ら死を選んでいる。年間、60,000万人以上の人間が、通常の死ではない死を迎えているのだ。今年は、それに震災による死者不明者が加わっている。

昭和の終わりが終わりを告げたとき、オレたちの国には、この現実がより広がるに違いない。
 
決してオレは、昭和を懐古するものではない。終るべきものは終わる。終りの次にしか、新しい時代は到来しない。しかし、昭和の先にオレたち日本人が劇場型政治グローバリズムというアメリカ主義の本格導入でえたのは、年間60,000人以上の人たちが通常の死ではない、死を迎える社会であり、国なのだ。被災地や原発事故被害の次のビジョンを生み出せない現実なのだ。
 
惜しまれながらでも、人々に看取られ、使命を果たして命を終える人は、まだいい。大事なのは、惜しまれることもなく、この世に何の痕跡も残せないまま、見捨てられるように世を去っていく人々の果たせなかった思いや願いだ。それを許している、この国の姿だ。
 
使命を果たしながら、亡くなっていく人々も、使命を果たしたがゆえに、その義憤は同じではないかと思う。その義憤を抱いたままでは、どのような死にも無念が残る…。