心の奥の悲しみが
人はだれもが自分の気持を受け止めてほしい…と思い続けている。
しかし、子どもから大人へと成長する中で、自分の気持や思いがやすやすと人に届かないこと。ああしてほしい、こうしてほしいという期待は、いろいろな形で裏切られるものなのだ…ということを学んでいく。
そこで人はいつくかの選択をする。受け止めてくれる人がきっといるはずだ…と受けとめられない不安を抑えて、信じつづけようとする人。これは相手や人を歪曲してとらえるという危険がつきものとなり、人を見誤る。
受け止めてくれない人がおかしいのだ…と自分の思いへの理解だけを求め続ける人。これは周囲の人を不愉快にもするし、仲間を失う。
そして、人は他人の気持など、受け止めてくれないのだから、期待しない方がいいのだ…と寂しさを抱きしめて生きる人…。これは諍いや対立を生まないかわりに、人と深い絆を結ぶ道を閉ざしてしまう。
いずれの選択も孤独だ。
つまり、人はそんなふうに孤独を抱えてしか生きられない。もちろん、そうした孤独を感じずに生きられる人もいるだろう。自分のことはいいから、人の思いや気持に応えるだけで幸せなのだ…という人もいる。だが、大方の人は、どのような立派だといわれる人にも欲がある。そうした境地にいくのは、凡人には、容易ではない。
人間、食欲、睡眠欲、性欲をあげるまでもなく、欲がなくなったら、生きられない。希望なき社会が多くの自殺を生んでいるいまの世の中をみてもすぐわかる。うつ病は欲の喪失と一体。
だから、欲を否定ばかりはできないのだ。かりに自分のための欲ではなかったとしても、人々のために何事かを実現したい…という願いも欲から出ているにすぎない。
欲があるから、人は芝居もする。人の気をひきたい、だれかに同情されたい、よく思われたい…そういう芝居をする。しかし、これは、ま、いまいった孤独とは縁遠い。いわば、泣き言のようなものだ。
欲があるから、人は芝居もする。人の気をひきたい、だれかに同情されたい、よく思われたい…そういう芝居をする。しかし、これは、ま、いまいった孤独とは縁遠い。いわば、泣き言のようなものだ。
泣き言のいえるうちは、人は孤独ではない。
泣き言のいえるうちは、人は孤独ではない。被災地で笑顔に出会うたびにそう思う。
そうした心の奥の悲しみがいつからか、この国の人は読めなくなってきている。