秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ジョン・ナッシュとアナーキズム

ノーベル賞経済学賞を受賞した数学者、ジョン・ナッシュの戦略的非協力型ゲーム理論、いわゆる「ナッシュ均衡」は、簡単にいえば、非協力であることによって、集団やしくみの均衡が生まれる…という理論だ。
 
これだけいうと何のことやらと思う人も多い。彼の半生を描いた映画「ビューティフル・マインド」では、これを合コンにたとえて、わかりやすく表現している。
 
合コンで人を集めるのに都合がいいのは、男性、女性それぞれに衆目を集めるひとりを呼ぶことだ。彼、もしくは、彼女がくるのなら、いっていみよう。高嶺の花であっても、もしかしたら…という期待が人を呼ぶ。
 
このとき、男性グループも女性グループも、その特質しただれかを中心に集合し、協力的だ。が、しかし。この特質した、だれかがいるために、参加した多くの人が、その特質しただれかに関心を持ち、結果、いい感じの二人だけのカップルが誕生し、ほかの参加者はカップリングができない…ということが起きる確率が高くなる。
 
つまり、協力型であるがゆえに、均衡がとれない状況が生まれてしまうのだ。

これをもし、特質しただれもいない、合コンの成立に仲間がなんとなく集まったとしよう。つまり協力的に集まっていない。そうすると、選択を偏らせるものがないため、この人、外見はいまいちだけど、いい人…とか、よく見れば、とてもセクシーじゃないか…とか、まじめそうで安心かも…とかいった、縛りから自由な鑑識眼で、出会いが生まれやすくなる。
 
つまり、参加者の中に、「あいまいさ」を含ませていると、非協力であるがゆえの成果が生れる。
 
これを数式に置き換え、データにすると、ITを使う製品への応用、化学反応への触媒応用など、多岐の分野で利用できることになる…というのが、ジョン・ナッシュの大きな功績。現実にこのナッシュ均衡によって、ITを始め、多くの電化製品、薬品等が大きな進歩を遂げた。経済効果は膨大なものだ。で、ノーベル経済学賞になった。
 
だが、この考え方は、何かの政治思想に似ていないだろうか…。そう、アナーキズム
 
ところが、特質しただれもいない、無名の人々が、非協力型で結集しても同じことが起きない。一部の専門家集団による政府や統治権を嫌い、評議会形式や集団合議の中で国政をつかさどるというと、そこにもリーダーが登場してしまう。
 
アナーキズムの落とし穴は、統治や国政というのものが一瞬では終わらないことだ。持続的、継続的対象であるがゆえに、非協力型では、治世がまかなえない弱点がある。簡単だ。機械や薬品とったものではなく、人の集合だからだ。合コンのように一瞬、その時間で終わる類のものではない。
 
あえて、非協力型を継続しようとすれば、入れ替え制を導入しなくてはならず、これは、政治のスピードを恐ろしく鈍化させる。
 
チェ・ゲバラでさえ、革命軍の統治管理には恐ろしく手厳しかった。ロシア革命で粛清されたトロツキーもしかり。まして、アナーキズムは一枚岩ではない。社会主義共産主義的なアナーキズム個人主義自由主義アナーキズムとではまったく、その思想形態が違う。
 
個に執着したアナーキズムは、いわば、ひきこもり症候群に近い。権威を否定しているようだが、実は撤退している。権威に立ち向かってはいない。社会主義共産主義的なアナーキズムは、共産主義の崩壊と同時に破たんしている。

オレのいう市民協働主義社会というのは、アナーキズムを原型としていない。その基本を日本の共同体社会の原型に求めている。悪しき共同体の弊害を取り除くために、共同ではなく、協働という言葉に置き換えているのだ。

だだし、そこの集合する人は、市井の人々でなくてはならない。既存の政治家や著名人や有名人を看板にしたり、旗印にする気はまったくない。逆に、そこから政治家や著名人が出ることはあってもいい。著名人ではなくても、地域の新しい世話役、リーダーが出てきて欲しい。
 
そうした人は、次のステージで、市民協働主義の考えを広めてくれればいいのだ。MOVEは常に新陳代謝を繰り返し、新しい人々によって、さらに運動を拡大していけばいい。
 
それこそが、いまの時代に成立するアナーキズムの姿だ。