市民が市民足りえるために
この世の中、人が人と関わり、生きていれば、迷いや戸惑い、不安や躊躇、疑念…といったものが生れるのは当然のことだ。
まして、社会が成熟すれば、それだけ、選択の幅は広くなり、人々が願う将来像や未来のビジョンも多様性に満ちていく。さらに、そこに膨大な情報にさらされる現実がある。情報量が多くなる分だけ、人々はひとつの情報だけを信じることができず、大量の情報によってつくられる情報のラビリンスを右往左往する。
つまり、それだけ、迷い、戸惑い、不安、躊躇、疑念が増大する…という社会、世界にオレたちは生きている。
そこで、とりあえず、棚上げ、先送り、その場しのぎが横行することになる。
一番問題なのは、そうした棚上げ、先送り、その場しのぎをだれか目に見えるひとりがやっていないことなのだ。なんとない、組織や集団の中の思惑やあうんの呼吸という奴がこうしたことを安直にスルーしていく。
一番問題なのは、そうした棚上げ、先送り、その場しのぎをだれか目に見えるひとりがやっていないことなのだ。なんとない、組織や集団の中の思惑やあうんの呼吸という奴がこうしたことを安直にスルーしていく。
これは、最近のオリンパスの問題ばかりでなく、この国の放射能時代の扉を開いた原発問題にも共通のことだ。避難生活を余儀なくされた地域住民を含め、その地域及び周辺地域の人々、もっといえば、原発の恩恵を受けてきた、オレたち国民、生活者一人一人に共通していることだ。
人は、問題が起きると、明確なスケープゴートを探す。その個人、団体、組織に責任はあるにせよ。それを容認、黙認、承認してきた自分たちへ刃を向けることはない。
棚上げ、先送り、その場しのぎをしてきたのは、政治家や企業人だけでなく、オレたち自身である…という振り返りがこの国にはない。
震災後、政治や政策にいまや多くを期待できないこと。国会は法律をつくるが実行の場ではないこと。その意味が途轍もなく現実味を帯びてしまったいま、依然として、政権批判や政党批判、あるいは企業への非難を集中したところで、何が変わるだろう。
あてにできないとわかりながら、なお、そこに批判を集中するというのは、依然として、棚上げ、先送り、その場しのぎをしている自分たち自身の依存性、制度への執着を露呈している…とオレは思う。
あてにできないとわかりながら、なお、そこに批判を集中するというのは、依然として、棚上げ、先送り、その場しのぎをしている自分たち自身の依存性、制度への執着を露呈している…とオレは思う。
大切なのは、こういう形ならば、オレたち自身が当事者として責任をとれるというビジョンや未来像を語ることではないのか。あるいは、そうしたビジョンが生み出せる市民同士の偏りのない、建設的な議論の場をつくり上げることではないのか。
国政も、行政も、企業も…その動向を監視すべきは市民なのだ。その義務と責任を果たしてこそ、市民が市民足りえる。