秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

選択の基準

私たちは、いろいろなことを棚上げにするのが好きだ。いろいろなことを先送りするのも好きだ。
 
 
とりあえず、いまの生活に格段の支障がなく、また、仮にあったとしても、棚上げや先送りにすることで、自分や自分の周囲やいろいろなそれられを取り囲むやっかいなものと向き合わないですむのならば、その方がいい…そう思う人の方が多い。

確かに。棚上げにもせず、先送りにもせず、いちいち、ひとつひとつの自分の問題や自分の周囲の事柄やそれらを取り囲むやっかいな課題を整理し、分析し、解決や解決へ向かう道を探るというのは骨が折れる。
 
自分だけ骨が折れるのならまだいいが、そのために、人とまみえ、議論もし、ときにはぶつかり、ときには対立し、そして、収拾のつかない抜き差しならないところまで追い込まれるのも、追いこむのもいやなものだ。
 
しかも、それをやった瞬間、責任が生まれる。背負うものも生じる。痛みもある。

だったら、軟弱といわれようが、場合によって、卑怯といわれがようが、何食わぬ顔で、物事や問題を棚上げ、先送りした方が、自分もみなも、波風立たず、平穏で、考え方によれば、幸せではないか…自由ではないか…そう考える。

だが、果たしてそうなのだろうか。平穏さや自由とはその程度のものなのだろうか。
 
確かに、世の中には、はっきりさせないで置いておいた方がよいこともある。傷に塩をすりつけるようなことは決してよきことでもない。
 
しかし、平穏というものは、じつは、抜き差しならないものの緊張の上にからくも成り立っているものだ。なにかの拍子に、ガラガラと音を立てて崩れるくらいに頼りないものだ。
 
自由というものは、棚上げや先送りからえられるものではなく、抜き差しならないところで、ひとつひとつ勝ち取っていくものだ。転がり込んでくるのではなく、あるときは自ら血を流しても奪いとるものだ。

だからこそ、平穏な日常のありがたさがあり、自由の尊さがある。

逃げていてばかりでは…避けていてばかりでは…そして、後回しにばかりしていては何もえられなければ、何も変わらない。自分なんて数の内ではないと他人まかせにしていれば、自分というものの成長もない。

14日は投票日。知性か、その逆かの選択はいつもその度にあると書いた。

もうひとつ。あなたの平穏と自由は、なにかを選択しないところであるのではない。目先の平穏やまやかしの自由は自分だけのためのものだ。自分以外の人の為に、あなたは何を選択するのだろう…。
 
選択の基準はひとつしか、本当はない。人の為、世の為、道の為