秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

まな板の上の鯉

人というのは不思議なもので、複数人がいるときと、一対一の会話をしているときでは、話の内容が変わるし、本心を明らかにできないものだ。
 
単に、一対一なら、自分の心の内をあからさまにできる…というわけでもなく、濃密である分、本心が語れないという奴もいる。複数人がいるとき、冗談のように話していたことが、実は自分の本心であったり、一番、いいたいことだった…という説明を後で聴くということも少なくはない。
 
どこでも、いつでも、だれにでも…ぶっちゃけ、ストレートに自分の気持を語ればいいのに…とまとめ役やリーダーといわれる人間は、微妙で、繊細なその気持ちのやりとりを受け止めるし、逆に、そのとき、その場できちんと言葉にされなかったことで、誤った選択や方向へ進まされることを一番恐れる。恐れるだけでなく、なぜ、あのとき、そういわなかったのだ!…と怒りさえ感じるものだ。
 
ことほどさように、人が自分の気持や本心を吐露する、あらわにするというのは、面倒で、手間暇と工夫のいることらしい。
 
そこには、プライドや周囲への見栄や体裁もあるだろうし、保身や自己防衛といったこともあるからだろう。
 
いまの世の中、「潔さ」という言葉が、ほぼ死語になっている。潔さと対なのは、ダンディズム。口では、男らしさ、女らしさ、あるいは、男の矜持や女の意地といいながら、いざ、自分に火の粉がかかると、ほとんどの人間は大慌てで、潔さなど投げ捨ててしまうと、相場が決まっている。

それは、すべからく、「自分」への執着が生んでいる。潔さとは、自分への執着が強くては実践できるものではない。
 
恋人への未練も、子どもを自分の思う通りしたいという執着も、仕事がうまくいかないことの責任をだれかに押し付けるのも、すべて、自分への執着が生んでいるのだ。その煩悩の中にいる限り、人は自分自身から自由になれないし、他者と深い絆をつくり出すことも容易ではないだろう。

人生、自分の思う通りにはいかない。状況を変えるための努力や工夫、創意は尽くすべきだが、だからといって、うまくいくとは限らない。所詮、自分なんて、まな板の上の鯉…。そう諦観できたときが、自分への執着をなくせるときなのかもしれない。

お盆前からお盆明け、あれこれ人と会話する時間が多いのだが、いろいろな人といろいろな角度から意見や考えを聞かされながら、そして、同時に、その思いをくみ取ろうとすればするほど、自分はまな板の上の鯉になればいいのだ…と気づかされている。
 
自分の考えに執着せずにいると、相手が答えを持ってきてくれるからだ。
 
人は人に育てられる。人は人に生かされる…まさに。