秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

身を挺してみつけださなくては…

スーパーにいくと、国産牛肉が…ない。
 
ミッドタウン地下のスーパーでも、置いてあるのは、ニュージーランド産やオーストラリア産…。それ以外は豚と鶏だ。
 
九州、四国、関西といった地域なら問題がなさそうだが、この間のセシウム被害でもわかったように、国産牛は解体された場所でその産地名がつく。徳島で解体しても、それがすべて阿波牛というわけではない。
 
消費者は敏感で、結果、国産牛はとりあえず、やめにしておこうと思うのだろう…か?
 
いやいや、仲卸や仕入売店が、消費者が避けるだろうと予見して、先回りしているのだ。
 
農産物しかり、水産物しかり。仲卸業にせよ、小売業にせよ、まずは目先の今日の売り上げが大事だ。消費者から質問や詰問を受けるような商品はおきたくない。
 
もし放射能被害でも出てしまえば、消費者はもちろん、マスコミからもパッシングを受ける。これは、該当商品だけでなく、他の商品への信用も失う。当然、腰も引けるし、足も引ける。
 
これに類するマインドが福島はもちろん、全国に広がっている。
 
消費者にしてみれば、安全だと知らされても、それを手にすること自体ができない…という現象が起きている。同時に、それは、やはりキケンなのだという予見と思い込みもつくっている。
 
キケンなものがないわけではない。とするのか、とりあえず、キケンに違いないとするか…で、すべての絵柄が変わる。

この循環に、しかし、政治はまったく機能していない。事故対応、生産農家や地域への補償問題ばかりを論じ合い、生産と消費を回転させるための方策や指針がまったくない。ただ、基準を越えているから、制限する。そればかりだ。
 
手間暇をかけて、情報を収集することと、手間暇を惜しまず、情報を選別し、提供するということをしない。その背景にあるのは、だれも責任をとりたくない…という一点に集約されている。
 
無難にことなく、この事態を乗り切る…ということばかりを考え、そこで生業を立てている人、そこでしか生業を立てられない人、一人ひとりの生活を見ていない。
 
また、生半可な知識やひとつのデータだけを信仰のようにあがめる、クレイマーがいることも大きな引き金になっている。
 
何事につけだが、可能性はまったくないと考えるか、わずかでも可能性があるなら、それに挑むか…その違いと選択が許されない状況が生まれている。確かに、子どもの将来の健康は大事だ。心配だ。だれもが挑戦できる選択ではない。
 
だから、安心して選択できるような道すじを大人が身を挺して見つけ出さなくてはいけない。それが後の世代に、この教訓を残すということなのではないだろうか。
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