秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

変化は日常の中にある

日常はさりげなく進む。いろいろと不安や問題をかかえていても、時間は確実に過ぎるし、ある場合は、期日が迫る…という現実は変わらない。
 
そのなかで、人は仕事をこなしたり、友だちとあったり、恋人や家族とあったりしている…という現実も変わらない。
 
だから、さりげなく、何のよそいおいもなく、日常は過ぎるのだ。
 
アフガニスタンにいっている仲間が、アフガニスタンの子どもたちの現実と向き合いながら、あるいは、ガザにいるJVCのSが、イスラエルの理不尽な攻撃に怒ったとしても、そこでできることの限界と生きることの限界があっても、しかし、オレと同じように、奴らも過ぎていく日常の重さを知っている。
 
今回の震災への支援をオレがかかわってるNPO団体が海外支援と同時に行いながら、失ったふるさとを前に、そして、仕事のない現実を前に、あるいは2万人以上の人々が亡くなった現実を前に、できることの限界を感じていても、アフガニスタンやガザと同じように、震災の被災地の今日も同じように過ぎている。

かわらない日常の重さに、違いがないように、被災した人々ひとりひとりの心の傷と生活の困難さに違いはない。それはどこにあろうと、どこであろうと、だれであろうと、同じなのだ。
 
社会学の効果測定論がいうように、戦中戦後の大変さが重く、いまの生活の中での苦しみがそれより軽いということはない。それも、人が生きる日常が、その人にとって、唯一無二のものだからだ。

甘えや依存はよくない。だから、唯一無二のものを取り返すのは、当時者自身でなくてはいけない。だれかがなんとかしてくれるではなく、自分たちの知恵と努力を尽くさなくてはいけない。
 
しかし、少なくとも、いつもあるさりげない日常という条件をつくるために、できるだけ周囲がサポートしなくてはならない。それは、自分たちの日常も、いま海外の被災地や福島が抱えている同じ問題を抱える可能性があるからだ。

もっといえば、そうした理不尽さや生活の困難さを生んでいる、根本にあるものを変える努力は、みんなでやらなくてはいけない。しかし、この国は、みんなでやることの姿と意味をすっかりはき違えてしまった。

ならば、だれか気づいた奴からやっていくしかない。できるところからやるしかない…と考えるのが、さりげない日常を生きるというものだ。それほどに、変化は日常の中にある。