秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

この国に生まれてきて

政局の混乱を苦々しく思う人は少なくない。あきれるばかりのコメントが被災地から流される…。政治と市民の意見の隔たりをマスコミも識者も強く主張する。確かに。
 
けれど、こうした危機に弱い政治が続けば、復興の足はこれまでのようにどん牛のような歩みにしかならないというのも真実だ。
 
官僚が事態の報告をしても、正確に首相に伝わらない。報告できても、自分は違う報告を受けていると恫喝し、声を荒げる。これでは、首相とまともな復興事業に対する話し合いができるはずもない。これでいこうと決定しながら、他の意見や提言で前言を翻す。これでは、官僚は行動も起こせない。

首相⇔官邸スタッフ⇔官僚・東電⇔マスコミの間で情報はただ循環し、錯綜しているだけ。
 
県、市町村から要望がきても、制度的にこれは農林水産省管轄、これは厚労省、これは国土交通省と縦割りになっているから、具体的に対策に取り組む前の段階ですべてが滞る。話を聞いても、具体的な行動に移されないのは、そうした状態にあるからだ。
 
いくら官邸に復興会議を置こうが、委員会をつくろうが、実際に県、市町村に国の指示として伝達されるのは各省庁からになる。このしくみを守っている以上、迅速な瓦礫撤去も、被災者への生活支援も素早く、うまくやれるわけがない。
 
日赤の義援金がほどんど手つかずのままになっているのも、銀行振り込みでなくてはいけないと市町村役場が硬直した手続きにこだわるから。制度上、印鑑、通帳がないと支給できないようになっている。
 
手順通りに…というのは役人の本質だ。だから、手順にこだわらなくていいと政府判断で呪縛を解いてやればいいこと。責任は政府が持つと。
 
それができないのは、財政赤字を気にし、海外の批判にばかり気を取られ、原発の処理に頭がいって、ほかを考えるゆとりがないから。それにいまの官邸は、世間やマスコミからの批判を恐れるあまり、安全・確実ばかりに気を取られている。

それがいくつもの省庁や関係部署からの意見を集約しなければという進め方にもなっているし、まずは会議をつくって、意見調整して合意をとってからといった手順へのこだわりになっている。

なんだか、それが気の利かない優等生の集まりに見えるのはオレだけか。

小中学校の頃に学級委員とかやってきた奴というのは、こうした融通の利かない優等生ばかりだった。クラスの大半が反対しても、こうだと押し切るような奴はほとんどいない。みんなの意見をまとめたら、こうなりました…とポチのように教師に報告し、良い子だといわれてしっぽを振る。そんな奴ばかりだったような気がする。
 
これは単に菅直人ひとりだけのことではない、自民の谷垣にしろ、公明の山口にしろ、威勢のいいことはいえても、その任についたら同じことをやらかす。それは自公政権のときの安倍や麻生の姿をみても一目瞭然。
 
簡単にいえば、「優等生」しか政治家になれないこの国の党や政治のしくみが大きな問題なのだ。治にあって、無難に状況をこなす人間と、乱にあって、危機を乗り越える人間とでは求められる力量に差がありすぎる。

一度シャッフルして、どういう形でも、短期でも、強引でもいいから乱に強い内閣をつくり、与野党まとまって行動する政治が一瞬でもできればいい…そう考えた国会議員は少なくなかったと思う。短絡的といえば短絡的。その場しのぎと言えばその場しのぎ。
 
だが、それでいいのではないかとオレは思う。いまの政治制度や行政の仕組みを変えている時間的余裕はないからだ。そういう強権内閣ができると危険だというのはわかる。しかし、もうこれ以上人の命を失わないためにも、生活困窮者をこれ以上出さないためにも、そうした思いきりがこの国には必要な気がする。

そもそも、もう20年以上も前からこの国の政治も制度も劣化し、摩耗し、21世紀に対応できる体をなしてはいなかった。そんなもののしがらみにしばられていて、いまの危機を乗り越えることも、それからその次の国もつくっていけるわけがないのだ。
 
これを機会にどんと制度を無視して、こうあったらいいと人々が願うことに手の届く政治をやらなければ、この国に生まれてきたことを誇りに思う人間もますますいなくなる。