福島を救おうプロジェクト -知られざる現実-
同行のKがインターネットで抑えたという宿は、昭和を思わせるひなびた旅館。次々にきれいな旅館やホテルが生まれる中、創業40年という菊屋旅館は、時代から取り残されたようにそこにあった。
高度成長の時代、バブルの頃は、芸者遊びをする客でほぼ満室だったという。色恋抜きで遊ぶ大人たち遊びが多く、雰囲気もよかったらしい。いま会津には30人ほどの芸者さんしかいない。最盛期は150人もいたというのだから、隔世の感がある。
高度成長の時代、バブルの頃は、芸者遊びをする客でほぼ満室だったという。色恋抜きで遊ぶ大人たち遊びが多く、雰囲気もよかったらしい。いま会津には30人ほどの芸者さんしかいない。最盛期は150人もいたというのだから、隔世の感がある。
高齢者の通院や子どもたちの通学に専用バスを提供し、食料素材も避難所や避難所代わりになっている旅館、ホテルに優先されている。一般市民はそんなサービスは受けられない。
会津では、人口増加によって、市民の食料が底をつきそうな状態。そこまで、普段の生活を削り、避難した人々をサポートしながら、一部避難した人々に家に戻れないいらだちや不満からだろう、避難所やホテル暮らに不満がこぼれる。提供される料理や待遇に不満をいう人間がいるらしいのだ。
2ヵ月近く経って、住民と避難した人たちの間に隔絶が生まれ、互いへの不満が渦巻き始めている。がまん強いといわれる会津の人に、それがあるということは、もう限界に近い。
原発があることで多くの恩恵を受け、他の地域よりは安定した財政の中で、多様なサービスを受けてきた。受けることが当然という空気が人々の感覚をどこか麻痺っせてきた。やってもらうのが当たり前。なぜなら原発を引き受けてきたから…
それは実に手前勝手な言い分ではないのか。その地域に住むことを自ら選択した以上、それは犠牲になったのではなく、自らの責任によって引き受けてきたのだ。マスコミや大衆はそれについては、口を閉ざす。それが、原発の問題にこれまで、地域住民も日本人も、マスコミが、いかに無関心だったかを見えなくしている。
会津では、この時期、たけのこが旬。山間で収穫される地元の野菜も名物らしい。しかし、原発汚染の不安から、そうしたものが出荷されていない。行政からの指示ではない。農協や組合が自主的に出荷を抑えているのだ。
朝、前回回った、避難所2箇所へ向かう。河東総合体育館には、まだ60人近い方がいる。ホテル住まいしながら、不満をいっている人は、自分たちよりもつらい環境で2ヵ月近く生活している人がすぐそばにいることをどう考えているのだ。
前回同様、支援物資を提供し、体育館にいる子どもたちに声をかえるが、カメラに照れて思うように話を聞けない。ふとみると、地域の人々や遠隔地の人々から寄せられた応援メッセージがあった。
福島をもう一度作りなおそう…。そうなのだ。原発の被害がある以上、まったくこれまでと同じにはなれない。
自分たちの町、地域の姿はどうあるべきなのか。そのことを福島の人々は自分たちに問いなおすときにきている。
双葉町、南相馬の方などが避難している「ふれあい館」。今回も支援物資はあっという間なくなった。丁度、料理の鉄人に出演した経験のある料理人たちでつくる、社団法人「超人シェフの会」が炊き出しにきていた。TBSのテレビ取材も。
いわき市の現状を伝えると、声をかけてくれればいつでも支援活動にいきますと力強い言葉。
会館の前で、ひとりブラスチックボールで遊んでいる少年に声をかけ、ピッチャーをやってやる。帰路の時間になり、もう帰らなくては…というと、なんでぇ~と不満の声をもらした。さびしかったのだろう。
しかし、じゃあな…と声をかえると、きちんと姿勢を正し、大きな声でいった。
「ありがとうございました!」…。その礼儀正しい姿に、ふと胸が熱くなる。ここでもそうだ。
心ない大人たちの軋轢や葛藤の中で、忘れていることを、小学生の男の子は知っている…