秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

会津芸者と会津の奥行 会津応援バスツアー紀行3

会津応援ツアー初日は、八重の桜ドラマ館→鶴ヶ城見学のあと、セミナーになり、夜の懇親会は30名ほどで、会津地域連携センターさんが手配してくれた、会津料理の「みよし屋」。そこで、喜多方出身という会津芸者の月乃さんの踊りと接待を受けた。
 
ちなみに、会津若松市にはいまも検番がある。総勢20名ほどの芸者さんが登録されているが、その大半は鳴り物を主とした高齢の方が多く、芸者と聞いて多くの人がイメージする舞を舞う、若い芸者さんは6名程度と聞いた。
 
震災後まもなく会津を二度目に訪ねたとき、東山温泉のひなびた宿に泊まった。そのとき、女将から、高度成長期、隆盛を極めた頃の会津の賑わいを聞いた。温泉と観光目当ての客の来訪もそうだが、米沢、新潟に通じる要衝にあって、人の行き来も頻繁だった時代のことだ。

 
毎晩のように、宴会があり、旅館に芸者を呼ぶお大尽も少なくなかったという。芸者さんの数も現在の比ではない。
 
もともと、関東から米沢、新潟に抜ける要衝にあり、人の往来が頻繁だった。宿場町としても栄え、かつ、物の中継地点としての問屋、いわゆる物流仲介センターとして商業の町でもあった。
 
何よりも、戦災を免れた結果、明治大正期の建造物が残った。それが、会津若松に京都に似た、歴史的な風情、町並み、そして、奥行きを残した。それを求めてくる観光客もいただろうし、仕事と遊びを兼ねてと会津を目指すお大尽もいたということだろう。

余談だが、明治新政府の要人の多くが、元芸者、娼婦を妻に迎えている。志士の時代からの縁というのもあるが、実は、これまでなかった外交官とのレセプションや外国政府要人とのパーティなどで、臆せず接することのできる女性が当時の日本人女性たちにほとんどいなかったためだ。
 
人前で意見を述べ、接客サービスをすることは武家や商家の女性にとって、はしたないことであり、恥だった。明治政府が海外留学を行う中で、女性に門戸を開いたのもそうした事情があった。だが、現実には全国でわずか5名。後に津田塾大学を創設する津田梅子や山川捨松ら、旧賊軍、旧幕臣の女性たちばかりだった。

明治初期の留学生は、実は旧幕臣や旧賊軍の子息子女が多かった。国に尽くすことで戊申戦争でかけられた汚名をそそぎ、家名を復権させる…その思いが強かったからだ。日本近代の底辺を、そうした人々が実は支えていた。
 
ちなみに、津田梅子は旧幕臣津田家の娘。山川捨松にいたっては、会津藩家老山川家の娘。8歳のときに会津戦争若松城に籠城し、飛び込む砲弾の火消役を大人の女性に交じってやっている。これが、後に、敵の将、西郷隆盛の従兄弟、後の陸軍大臣、参議・伯爵の大山巌の妻となる、大山捨松。中高大学をアメリカで過ごし、帰国子女の走り。晩年、日本赤十字の創設にかかわっている。山本八重との縁も深い女性だ。
 
会津には意外に知られていない人材がいる。維新前、会津…いや、いまの福島にあった教育の頑なな面とそれゆえに、より広がろうとする学習の意欲との両面があったことがうかがえる。なるほど…と思う。でなければ、自由民権運動があれほどに福島で勃興するはずはなかったのだ。
 
余談ついでに…月乃さんは、会津一と誉れのある芸者さんだそうだ。

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