秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

この国に住むあなたたちへ

いま、福島差別という悲しい言葉があちこちで聞かれるようになっている。

原発周辺から避難した人々が避難した地域で、とりあえずの生活参加をしようとしているが、子どもたちの転校先の学校で、地元の心ない子どもたちから、「移る」「こわい」「汚い」…とさけられるようなことが起きている。
 
出荷規制のかかった農作物が出てから、福島、茨城、千葉といった地域の野菜で出荷されているものまでもが避けられるということは、ずいぶん前から起きている。
復興を目指そうと操業を開始し、魚を市場に荷揚げしようとしても、放射能汚染の検査ができないからと荷揚げを拒否する漁港もある。
 
首都圏周辺やその他の地域でも水道水への過敏な反応から、水の買いだめ、買占めは続いている。
 
東電の対応や政府の取り組みに被災地と同じように非難しながら、同時に身の安全への恐怖から、被災したものすべてを拒否しようする。

自由と公民権のあり方について、前に紹介した。
 
原発の恩恵によって都市的生活の豊穣さを享受しながら、その豊穣さを提供している地域や人々への理解がまったくなかった人々が、自分たちに放射能汚染が迫ることに異常なほど過敏なのは、都市的生活はしたいが、そこに原発は置いてもらっては困るといって、それを担っている地域や人々を自分たちの都市生活とは切り離し、その地域や人々の顔も実状も見ようとして来なかったこと、そのままの姿を露呈しているに過ぎない。
 
だが、その自分たちの身勝手な自由の主張へ後ろめたさから、東電や政府に対して石を投げつけることで、福島の人々と同じように、自分たちも被害者なのだと主張し、それが自分たちの身勝手な自由の主張ではなく、被害者全体の主張なのだとカムフラージュしようとしているだけだ。

福島差別をやる刀でとってかえし、東電社員やその家族への差別をやる。そこでも、自分たちの自由の主張が公民意識によるものだとするために、結局、いくところは政府非難しかない。これは、首都圏生活者ばかりではなく、実質的にはマスコミ自体が同じことをやっている。
 
そもそも原発推進を強引に国策としてきたのは自民党だ。その自民党ですら、先頭を切って、政権批判をし、あたかも自分たちには今回の原発事故の責任はまったくなかったような顔をしている。東電や電力会社から原発の見返りに多額の献金を受けながらだ。マスコミは原発推進の多額の広告収入をえながらだ。
 
日本のマスコミは計画停電が絶対起きない、港区にすべてある。そして、最先端東京の象徴も港区にある。別のブログでふれたが、学校給食費の滞納世帯が都内で一番多い、港区がだ。その平均年収は2000万円以上。
 
確かに、水の買占めから、自分たちの安全のために西日本や関東周辺の特定栽培をやっているような農家から食材を購入するには、お金がなくてはできはしない。
高層都市タウンや自然食専門の高級レストランで安全な食事をするにも金がかかる。
 
つまりは、経済的な格差、都市と地方の格差、地方の犠牲の上に高層マンションや利便性の高い場所に住み、その格差が原発によって汚染されてしまうことを恐れている。
 
それはそうだ。原発による汚染は金持ちであろうが、貧しかろうが、人々に平等に降り注ぐ。それは、経済格差によっては最終的に防ぎようがない。自分たちの経済的優位性が保たれず、「あの人たちとは、あの地域とは同じ眼に遭いたくない」。根本は、たかがそれしきの理屈しかない。被爆すれば、すべてみな被爆者だからだ。
 
かつて広島、長崎に原爆が投下され、それから後、100年は植物は芽を出さないだろうと予測された場所で、その春には花がさき、10年も経たないうちに、広島、長崎はよみがえった。しかし、その表の美談は軽薄な理解だ。いかに、被爆後、広島、長崎の人々が差別されたか、被爆者差別がいまもなおあるか。それを知らなさ過ぎる。
 
このままでいけば、福島の人々に対して、あの頃と同じような結婚差別、就職差別が起きない保証はどこにもない。東電社員やその家族への差別も生まれるだろう。現実に、福島出身の転校生と同じように、父親、夫を東電に持つ妻子へのいじめも始まっている。

オレはいつも人権啓発や差別の問題について語るとき、この国が戦後65年の中で、様々な人権運動、啓発をやりながら、現実的には何も変わっていないということに必ず触れる。そして、その根幹にあるのは、民度の低さによる公民意識の醸成、教育がないことだと主張し続けている。
 
常に、差別する側にとって、それは意識的であれ、無自覚であれ、「差別」は他人事であり、差別への対策は、同じ国民、市民、地域住民一人ひとりの生きる権利の主張と同じものであるという認識を育てる取り組みや教育をしてこなかったことに問題があるからだ。

この国は一度たりとも、公民権運動がなかったということもある。しかし、それを差し引いても、人権啓発にかかわる政府も行政も自治体も人権団体も、予算という甘い汁とそれによる支持母体票としてのつながりにすり替え、本気で人権教育をやろうとはしてきていなかったからだ。

この国に住むあなたたちは、自分たちの国がこのまま公民権、公民意識を獲得できないままでいいのか? 原発推進政党の自民党はそのままでよくて、東電や政権に石を投げ、福島差別や東電社員を社会から追いやる社会でいいのか?
 
そのようにして、だれかの人権や生活権を蹂躙することが当然とする社会をつくるということは、あなたが、あなたたち一人ひとりが、そしてあなたの愛する子どもやまた、その子どもが、何かのときに同じ差別にさらされる社会をつくるということだ。差別されることを許すということだ。

あなたは、そういう社会をいまつくろうとしている。その歴史的責任を、あなたは、かつてこの国を愚かな戦争へと導き、人のいのちを使い捨ての道具のように扱った、あの人たちと同じように、自分たちに責任はなかったと言い逃れ、恥もなく、手前よかれと生きていくのか。
 
そういう社会を生き、それを当然とする息子たち、娘たちの未来が世界に通用すると本気で信じているのか。