秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

平成の自由民権運動

特定非営利活動法人Social Net Proejct MOVEが提唱する、「市民協働主義社会」という言葉は、何かの文献にある社会思想の言葉ではない。
 
震災後まもなく、眼の前に広がる被災の現実と避難所や施設で出会った人々…原発事故や被災の傷を負った福島県内、石巻市の人々の姿や言葉にふれるうちに、震災を契機に地方、地域、そして都市に生きる人間が目指すべきは、こういうことなのだ…とオレ自身、確信するようになったのだ。
 
いや、震災があったからこそ、地域が生まれ変わる、地域新生のチャンスをもらったのだと考えるようになった。それが自然に、これまでとは違う社会のしくみ、「市民協働主義社会」という言葉になって出てきた。
 
そこには、「市民の、市民による、市民のための地域づくり」の実現がある。それを基本に置いて、これからの地域を考えなければ、国の将来はない…その思いがあったからだ。
 
あえて、市民という言葉にこだわっているのはわけがある。
 
明治維新以後、この国は、中央集権の中で、地方、とりわけ東北地域の生産力、労働力、資源、そして、女性の性をも都市に吸い上げてきた。それは、戦後になっても変わっていない。日本国憲法明治15年前後の自由民権運動がつくった憲法草案を吸収してつくられているが、実態はその実現に至っていない。
 
昨日のブログでも少しふれたが、維新の否定から生れた自由民権運動、その根本にあったのは、地方分権地方自治と地方に生きる貧しき人々の権利保障だった。だが、地方や地域を考えるとき、そこにまずあるのは、国家国民ではない。
 
まずあるのは、顔の見える地域の生活者の自立と自立できるための権利保障だ。それは同時に人権保障でもある。それが地域で守られ、十全に機能してこそ、国家国民がある。地域に生きる人々の市民意識と自立、それを担保できる財源や人材活用、教育の自由、生活権の保障があってこそ、国があり、それを支える国民の総意が生まれるのだ。

多くの近代民主主義国家が共和国制や合衆国制をとっているのは、自由と国民の権利を勝ち取るために多くの血を流し、地域の独自性を守り、育て、市民が自立できてこそ、国の発展がある…ということをよく知っているから。
 
地域の自治と自立、それに基づく自由と経済基盤の確保があって初めて、国家への献身、貢献が誕生する。それが愛国心や倫理、道徳、そして法の遵守と統制を生み出す。そして国家は、そのために国民の福祉=生活権と人権を優先する。まちがっても、まず国家ありきではない。
 
それをもっともわかりやすく実現するためには、だから国民という枠組みの前に、市民という視点と自覚がなくてはならない。それが、あえて、オレが市民の…という言葉にこだわっている理由だ。
 
また、いつも例に挙げるように、アメリカやフランス憲法など近代憲法において、市民による国家=治世者への抵抗権、武装蜂起による革命権が認められている。国家は国民がつくるのもの。だが、その折々の治世者や政治思想によって、それが裏切られることをよく知っている。
 
アメリカが銃による多くの悲惨な事件を抱えながら、それでも銃に寛容なのは、全国ライフル協会の圧力があるだけでなく、修正第5条へのこだわりがあるからだ。これも、国家や治世者が先にあるのではなく、生活者が国をつくる基本にあることを理解しているからだ。
 
NHKがいま、「日本人は何を考えてきたのか」という硬質のドキュメンタリー番組をシリーズでやっている。第2回は自由民権運動。震災によって海岸線の被災を受けたばかりでなく、原発事故によって4つ目の被爆地となった福島県が当時、その運動のメッカで、三島県令(初代警視庁長官)によって筆舌に尽くしがたい弾圧を受けたことを知る人は少ない。
 
オレもよく知るNHKの元プロデューサー吉田満さんが演出をやった大河ドラマ獅子の時代」(脚本山田太一)にそれが描かれている。
 
戊辰戦争以後、東北は賊軍となり、維新以後、中央政府から激烈な差別を受け続けた。西と東の格差はその時以来のものだ。維新といっても、薩長土肥による政権奪取に過ぎず、福島県を筆頭に南三陸など官軍に抵抗した地域は、国家予算の手当てもなく、もともと貧しい農民、漁民が主要な世帯だった地域は、維新後よりさらに生活苦にさらされた。
 
そうした中で、いま、原発避難地域にある浪江町から刈宿仲衛という運動家が生まれ、三春町から河野広中が登場した。日本国憲法と見紛うほどの近代憲法草案をまとめたのは、仙台藩の下級武士出身の千葉卓三郎。被災した久慈市が生んだ小田為綱も草稿を書いている。南相馬からも有意な人物が誕生した。

中央集権と中央政府の圧政によって、地方、地域の力が一方的に吸い上げられ、都市にしか金が集まらず、集められた金は、地域へは回らない。まさに、この20年の日本の状況と丸写しだ。疲弊する地方のあり方に、声をあげたのは、当時25歳前後の若者たち。みな、いま被災地になり、国から棄民同然の処遇しか受けていない東北の被災した地域から登場している。

番組の中で、南三陸の醤油製造の30代半ばの経営者が語っていた。
 
「震災の前から東北は見捨てられ、終わろうとしていたんですよ。農業に従事する人たちは70歳以上の高齢者。この国から農産物が収穫できなくなる。そんな時代が眼の前にきていた。今回の震災で、それを一からやり直すチャンスをもらった。だから、新しい地域のあり方を考え、つくり出さなくてはいけない。それには、国も支援を惜しんではいけないはずだ。もし、それを惜しむなら…そのときはオレたちにも考えがありますよ」

そうなのだ。震災が教えたのは、もはや限界にきていた地域の姿の現実なのだ。そのおおもとは一極集中型の開発、大都市の資本でその場限りを賄ういままでのあり方そのものからの脱却しかない。
 
MOVE宣言にもある。いわきの新生なくして、福島の新生なし。それは福島の新生なくして東北、そして全国の地方の新生もないということだ。地方の新生がなければ、それに国が思い至らなければ、国の新生もない。
 
市民協働主義社会の実現とは、平成の自由民権運動。だからこそ、オレたちは、福島から始めなくてはいけない。