秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

悪貨は良貨を駆使する

「悪貨は良貨を駆逐する」。中学校の公民か高等学校の政治経済で、この言葉を学んだと思う。
 
16世紀、イギリスの経済学者で、国王財政顧問トーマス・グレシャムが唱えた理論。いわゆるグレシャムの法則
 
金の純度が高い貨幣とそうではない貨幣が流通すると、人々は当然ながら、純度の高い貨幣を保存し、市場には悪貨が蔓延する。その結果、額面価値と実質価値のかい離によって、貨幣への信用がなくなり、国の財務が破たんするという経済理論のことだ。
 
もちろん、いまの経済は、金本位ではないから、この経済理論は過去の遺物だ。現在では、インフレによる減価などがそれに代わっている。
 
また、中東やアフリカなどの内戦や紛争を経験した地域にいくとわかるように、ドルが市場に流通しながら、超インフレで貨幣価値のなくなかった紙切れ同然の紙幣が、依然市場に流通しているということもある。
 
20年ほど前まで、中国でも、地下銀行が存在し、日本円やドルを独自のレートで元と交換できた。日本から中国へ送金する場合も、円で送ってくれとよくいわれたものだ。結果、いまと比べて、元の国際的信用はほとんどなかった。
 
だから、グレシャムの法則は必ずも普遍的なものではない、ということができる。
 
が、しかし。グレシャムの法則社会学的に転用すれば、紙切れ同然になった紙幣にせよ、かつての中国にせよ、共通の価値への不信、不安が生まれている社会では、自国民ですら、自国の貨幣価値に信用も持たないように、社会的枠組みまで信用しなくなる…という点については同じことがいえる。
 
当然ながら、自国民が信用していない社会的枠組みが国際社会において信用されるはずはない。この場合、悪貨とは、軽薄な価値の流行と言い換えられる。
 
現政権の震災対応へ非難、あるいは原発事故対応への東電への批判…。それ自体をオレは否定しない。しかし、これがいま次第に単なる非難のための非難、誹謗に変わっている…と感じるのはオレだけだろうか。
 
数日前のブログでもふれたように、公民の自由の権利は公民としての社会貢献と対になっている。その基本を検証することなく、他に対してのみ、責任を転嫁する、あるいは、これまでの歴史的経緯や諸外国の動向、つまりは経済、外交上の問題を抜きにして、目先の事象に非難を集中する…というやり方は、芸能ネタやゴシップネタのやり方と実質的にそう変わらないし、実に品位と知性に欠ける。
 
しかしながら、現在のように社会不安にあふれた状況では、そうした輩が大勢を占めるし、そこに容易に人が群がる。不安の代償には、スケープゴードが必要で、まさに、いま政権や東電は格好の対象だからだ。
 
批判や抗議がいけないといっているのではない。こうした国難にあってこそ、大いに議論を交わしていい。が、しかし。同時にこうした国難のときだからこそ、建設的なものでなくては意味がないといっているのだ。それが結果的に、オレたち国民の民度を世界に示すことにもなる。
 
原発抜き社会の青写真でもいい。原発は危険であるという大前提と共に生きる道を求めるでもいい。あるいは、こうした政治、こうした社会のしくみが求められているでもいい。もしかりに、そうした図面を引く時間とスキルがないなら、政治家に直接働きかけるでもいい。
 
あるいは自分の生活の中で、具体的にこういう取り組みをやる。だから、賛同する人は協力してくれでもいい。
 
つまり、行動によって自論と指針を示す…ということがいま一番求められている。行動すれば、ペーバー情報、裏情報とは、また違った姿が見えるからだ。現実を変える力は現実の中にしか存在しない。そして、行動によってしか示されない。
 
いま大切なのは、それぞれの行動によって、人々が合意できる共通の価値、共通のビジョンをつくることだ。そのためには、この国の力、ここに生きる人々すべての力を信じること以外にない。良貨を駆逐する社会であっては、それは望めない。