秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

神の下ではすべての人は平等

数日前の報道だが、NBAのオーナーが黒人選手への差別発言で、NBAから永久追放された。

NBAのチームオーナーになるくらいだから、当然ながら大富豪だし、社会的には超アッパークラスの人間だ。富だけでなく、地位もあれば、権力もある。
 
だが、それを永久追放した。日本でいえば、巨人軍のオーナーのナベツネが野球界から追放されるようなことだ。
 
アメフトやベースボールと並んで、アメリカの国民的スポーツのプロバスケ。その世界から追放されたのだから、社会的に大きな痛手なのはいうまでもない。だが、それ以上に、世界的マーケットから締め出されたのだから、金銭的な意味での打撃の方がはるかに大きいだろう。

これをあなたはどう考えるだろう。

そこまでしなくてもと考える人もいるかもしれない。現実に、いまでさえ、黒人を始め、日本人を含む有色人種への偏見を持つ人がいるアメリカでは、愛人にハメられたといった擁護派もいる。

 
しかし、どのような経緯や事情があったにせよ。あるいは酒を飲んでいたにせよ、仕事でイライラしていたにせよ、チームが弱くて苛立っていたにせよだ。黒人選手に対して、差別発言をし、その選手の人権を傷つけたのは事実だ。

また、別のあなたは、まったく気にしない。関心がないと思う人もいるかもしれない。あるいは、社会的な地位や立場がある人間だからこそ、当然のことだと息巻く人もいるだろう。

だが、とても重要なのは、人権を傷つけると処罰されるということだ。もっといえば、人権は何らかの処罰や罰則を設けないと守られないということを彼らはよく知っているということだ。

アカデミー賞を受賞した『それでも明日は来る』に描かれているように、1950年代から公民権運動は始まり、1960年代キング牧師やマルコムXらの登場で、アメリカの公民権運動は一気に加速した。当時の大統領と司法長官のケネディ兄弟が政府としてこれを擁護したことも大きい。
 
60年代公民権運動の立役者たち、この4人はすべて銃弾に倒れ、暗殺されている。
 
ひるがえれば、映画『リンカーン』の時代、南北戦争時代から、彼らは、国会の場で人権を議論し、市民に語りかけ、同胞同士で血を流しながら、公民権(人権)を確立してきた。

その結果、たどり着いたのは、人権を侵害する者や言葉を含む暴力には、法的、社会的処罰や制裁を設けなけば、それを抑止することも、人々の人権意識を育てることもできないということだ。銃規制が緩いということもあるが、それがアフリカをのぞき、世界で最大の黒人文化を持つ彼らの結論だ。

私は、東京都人権企業連絡協議会(都内大手企業150社程度が参加)の講演で、監督した、格差を描いた映画『見えないライン』(三田村邦彦主演)上映のあと、このことを語ったことがある。

人は平穏な日常が約束され、生活の不安や将来に大きな問題がなく、明日食べるものにも困らないという平時にあって、他者の人権を傷つけることは容易にしない。するとすれば、その成育や教育に最初から歪みがある人間だ。
 
だが、どんなにいい人と言われている人間でも、明日食べるものがない、いまある日常が危機に遭遇すれば、他人の人権を傷つけ、場合によってはその生命を奪ってでも生き延びようとする。
 
それどころか、人を傷つけること、人を殺すことの罪悪感さえなくすことができる。快感とすることさえできるのだ。

それが人間の本来性だ。だからこそ、神の下ではすべての人は平等という、普遍的な価値としてある人権を守るためには、それを蹂躙するものに、やったら処罰されるという社会ルールを設け、それによって人々の啓発、啓蒙、そして意識改革をやったのだ。

私は決して、アメリカがすべてにおいて人権国家だとはいわない。イエローのジャップの国だから、原爆を落とせたのだ。落とした目的に実験データ収集があったのだ。アフガンやイラクへ、他宗教の民族だから、最新鋭の武器の実験場として、膨大な武力を投入できたのだ。

しかし、少なくとも、人権侵害を抑止するために、きちんとした制度を設けた。戦争をやる自分たち人間の本来性をよく知るがゆえにそうしたのだ。独立戦争南北戦争公民権運動で血を流してきた彼らは、また、世界大戦を中心で担った彼らは、戦争や暴力が自国民にとっても対戦国民にとっても、人権侵害の頂点にあることをわかっている。

これを日本国憲法に置き換えて考えてみたらどうだ。日本国憲法に保障された基本的人権はいま守られているのだろうか。特定秘密保護法案はもとより、高齢者や母子家庭の問題、過疎化や介護の問題。そして、いま問題になっている9条の解釈変更の問題…。

福島への対応はどうだ。いまだ人々の生活は回復もしていなければ、守られてもいない。

日本国憲法が守られてない。それはいうまでもない、いままで述べてきたように、それが人々が守らなくてはいけない制度にまでなっていないからだ。憲法はあくまで国の理想だ。だからこそ、それを制度、一般法にまで具現化しなくてはいけない。
 
だが、この国は、国民も政治家もそれをずっと怠けてきた。そしていま、守らなくてはいけない制度をつくるのではなく、守らなくてもいい制度をつくろうとしている。

ひとえに、守らなければ処罰や制裁を受ける規定がないからだ。神の下では人は平等。あるいは、隣人愛。近代憲法のすべてにある理想の実現のための制度づくりを忘れ、暴力と人権蹂躙をよしとする国家が生まれようとしている。