秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

どういう自由の主張ができるだろうか?

宮城県建築基準法に基づいて、被災地域への建築認可を一時凍結した。復興を円滑、かつ迅速に進めるための特例措置。岩手県もこれに準ずる気配を見せている。
 
昨日、相対的な価値の林立の話にふれたが、この建築認可の凍結にも相対的な価値と同じ問題が根源にある。それは、公共財意識の問題と自由の問題だ。もっといえば、公民の自由とは何かという問いだ。
 
これは原発を都市生活者はどう考えるのかという問題にもつながり、地方と地方、地方と都市、あるいは、計画停電の不公平性に象徴される都市内における格差をどう考えるのかという問いにもつながっている。
 
つまり、林立する相対的な価値をどう調整するかに、もっといえば多様な価値が存在する社会において、パブックへの貢献を第一として、問いの解答をみつけるかどうか、それをしないかするか…という選択への問いなのだ。
 
いま原発放射能汚染について首都圏の人々は敏感になり、東電批判をはばからない。しかし、あなたたち都市生活の豊穣すぎるといってもいい明かりに満ちた生活は、いまあなたが批判している、その原発によって支えれている。これまでその自覚があったかどうかは別にして、あなたは、その恩恵によって、地方では考えられないほどの夜更かしができた。
 
仕事を遅くまでやることで、生産や販売に貢献でき、地方以上の収入もえてきた。その疲れやウサを朝まで営業しているような飲食店で晴らすことができた。そして、それが失われ、計画停電や節電のために、特急がなくなり、急行が間引きされ、通勤時間の負担も、家に帰ってからのくつろぎの時間も制約された。
 
仮に原発放射能汚染が起きなかったとして、これを考えてもらいたい。
 
いずれにしても福島第一、第二原発は止まっている。しかし、幸いにして福島の人々に避難勧告は一部しか出ない。水や野菜、乳製品、牛肉、水産物の供給は断たれるが、汚染の心配はない。
 
だが、当然、電力は不足する。都市部に課せられる課題は同じだ。というとき、やはり、それができないことへの憤りを東電だけにぶつけるだろうか。ぶつけるとしたら、どういう論拠、どういう「自由」の主張が、あなたたちにはできるだろうか?

しかし、現実には放射能汚染の責任は東電の人災であり、仮定の話は意味がない…とあなたたちは主張するかもしれない。
 
では、原発に頼らないで、どうこれまで豊穣だった都市生活が維持できるのかを考えたことがあるのだろうか。いや、そもそも、首都圏の電力を地方の原発が担っていたことを認識し、それについて何がしかの主張をしてきたのだろうか?
 
それもこれまで東電が安全だと連呼してきた責任だとするのだろうか?
 
だとすれば、あなたの自由は公民という裏付けをもった自由ではなく、自分の生活さえ安全であればという私的自由の主張をしていることにはならないか…
 
という問いが、建築の認可凍結にもあるのだ。
 
では、これから先、岩手、宮城の市民が、被災した地域に自分の好きなように、私的自由を優先させ、家や工場を建てることは、いまから、そして将来において、防災上、生産上、流通上、そして、公的市民のネットワーク上、より素晴らしい地域が再生されるとあなたは主張できるだろうか?
 
つまり、いいたいことはこうだ。公民権とは、パブリックに対しての貢献を絶対の前提としてなければ、成立しないということだ。そして、公民意識を市民に根づかせていくためには、その貢献を当然とする社会をつくるための、問題意識と議論を国は提供しなくてはいけないということだ。
 
オレたち(国・自治体及びそれにぶらさがっている団体)の言うとおりにやらせてくれ、その代り、地域にいい思いをさせてやる、あるいは、企業にいい思いをさせてやる…では、これができない。また、お前たちに任せたのに、どうして、こんなことになったのだ!と、怒ってばかりでは、また、これもできない。
 
パブリックの形成と市民の自立=公民がそこにないから、あらゆる相対的な価値に応えようと国は歪な行政を行う。また、団体や企業、組織に所属している市民だけの声が大きいから格差が市民間でも生まれる。
 
私たちがいま自覚しなくてはいけないのは、こうした考え方をよしとするかしないか。
パブリックへの貢献を第一としながら、市民としての主張を私的にではなく、全体の幸せとして理論立てて、主張できるかどうかにかかっている。
 
どこかのアホな地域コンサルや都市整備会社に丸投げして、復興整備をやっても、いまこの国が必要としている、公民意識の醸成にはつながらない。