初めての問い
日本人は戦後65年。「問う」ということをしてこなかった…とオレは思う。
よく知られているように、敗戦後、その戦争責任を問うたのは、連合軍であったし、その責任の追及は、実に恣意性に満ちたものだった。つまり、占領下及び独立後にこの国が連合国側にとってコントロールしやすいための、問いかけしかしなかった。
したがって、世界では考えられない、A級戦犯者やその縁者が総理になるということも平気でできた。
したがって、世界では考えられない、A級戦犯者やその縁者が総理になるということも平気でできた。
日本人が唯一、自らに問いかけをしたのは、GHQによってその大半が作成されたによせ、日本国憲法を批准するかしないかの国民的合意のみだったといってもいい。
以後、オレたちの国は、復興を大目標に邁進してきた。しかし、この復興が目指したのは、豊かさと強さだけだ。世界に追い付き、追い越す。勝ち抜けの精神だ。
そこに問いは必要なかった。国際情勢が日本の経済を後押ししたからだ。
ただがむしゃらに、食料を、燃料を、生産を、売上を上げることが美徳とされた。戦中、生産性の向上が謳われたと同じように、人々は、生産性があがれば、この戦争に勝てると信じた、まったく同じ行動原理と発想で、経済成長を達成した。
成熟社会、その後の空白の10年、そして、リーマンショック後において、それはより一層、この国を経済至上主義へと導き、公害、環境問題、そして、格差やそれに付随する多くの社会問題をも生んできた。
しかし、それでも、一度も戦後の歩みのあり方、戦後日本のあり方を真摯に問うことはしていなかった。
それ以外の社会のあり方、国のあり方がなかったからだ。いや、正確には問いがないから、振り返ることができなかったといった方がいいだろう。
戦前の日本社会にあった循環型生活のしくみ、「もったいない精神」、相互扶助のシステムだ。だが、敗戦とともに、それらは、戦争へと向う談合的社会、悪しき共同体としてだけ切り捨てられた。
多くの人が、この苦難を乗り越える先に、震災前と同じ経済回復を目指すだろう。いままでと同じ場所、同じ系列、同じ発想、同じモデル…。しかし、それをまったく同じに回復することは容易ではない。また、それには10年をタームとした計画や取り組みが必要になるだろう。
そのなかで、きっと回復できない人、回復できない業種や現場が生まれてくる。分業化や分散化という流動性によって、被災地域の不具合が国全体、世界全体に波及する時代をオレたちは生きている。
多様性と多元性に満ちた社会がもたらす流動性。それが、いま、そしてこれからの復興と経済回復の大きな壁となってくるだろう。
人々は生活が回復すればそれで満足するのではない。社会学の等価効果論にもあるように、食べるものがないという欠乏感と生活はできているが役割や社会参加の手立てがないというのは、同じ欠乏感、等価なのだ。
そのときに、ただ今まで通りの生活ができた、ということで保たれるものは続かない…とオレは思う。この間、サンデルが引用したケネディの演説にあるように、GDPはこの国がどういう国であるかは示せても、人々の生活の質は何ひとつ含まれていない。
いまオレたちは、ひとり一人の生活から、組織のあり方、これまでのビジネスのファーマット、そして、地域、社会、国のあり方一つ一つに、「これでよかったのか」「これからもこれでよいのか」という、初めての問いを必要としている。