秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

市民運動とは柔軟なものだ

自分に固執し、自分の狭い実感や固定観念に縛られている人は、オレ回りに多くない。ほぼ、たいがい、話をすれば、とっぱわれるというのが普通だ。
 
まして、初対面でもなく、いろいろと別の案件で意志の齟齬がない人が、まるで突然のように固執や狭窄した考えを強く主張するということはほとんどない。
 
このところ、あるNPOを立ち上げようという会議の中で、筋道立てて説明してもその内容を理解できない、できているかもしれないが、何に固執しているかわらない主張を繰り返すKくんと、生産的ではない議論を繰り返している。
 
自分はこういう形でなければいけないと思うという主張はいいが、それが彼の個人的な思いや経験則が絶対というニュアンスが強い。それならそれでいいのだが、だれがきいても、論理立てて筋道を構築している説明が入っていかない。
 
おそらく、内容や中身ではなく、まったく別のところで、彼は心を固くしているのではないか…ふと、そう思った。まとまる話をまとめなくするような人間ではない。しかし、ほぼ仲間の大半が同意しているところで、意義を唱え続ける…本来、そうした人間でもない。
 
基本、思い入れを深ければそれで、うまくいくというものでもない。最初から完璧、完全さを求めて動き出す、プロジェクトはどこにもない。
 
主体的にかかわる上ので何か、引っかかるのものが彼にあるとすれば、それは深くこの運動にかかわらない方がいい。彼にとっても精神的に負担だろうし、周囲にとっても迷惑だ。それに活動を前にすすめるブレーキになる。
 
そうすることが内容を深く検討することになるかもしれないが、あまりに観点の違いする意見があっても運動はうまくいくことない。
 
人間関係がそれで悪くなることを彼は心配していたようだが、それは、やはり彼が何か冷静ではない思い入れが深いから、そう思うのだ。それがあったからといって、それはそれ、これはこれ。
 
その軽さや隙間のない人間関係で一つことをやろうとしてもうまくいくものではない。
 
まだはじめたばかり、スタートに声をかけたメンバーが変わることもオレは想定していた。いろいろな新しい人材の出現、やろうとする行動の中で必要となる人間…
市民運動とは、いつもそれほどに柔軟性に満ちたものだ。