秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一緒にがんばろう…

人には、それぞれ何事かに思い入れというものがある。
 
子どもへの思い入れ、異性への思い入れ、仕事や役割への思い入れ…。しかし、これ、度が過ぎるとときには、それが押しつけであったり、相手の望むものを越して、うざいものであったり、否定の対象になったりする。
 
場合によっては、気づかぬうちに傷つけることになったり、相手の気持ちを無視した言動になり、KYとなってしまい、拒否の対象でしかなくなる。よかれという思いは、そうしたリスクと隣り合せなのだ…ということに、だが、人はなかなか気づけない。
 
愛は、ただ深ければいいのではなく、深さのあり方が重要なのだ。
 
ある女性がいった言葉。
 
「あなたが私のことを愛してるのはわかってる。でも、愛し方が違うのよ。あなたは自分の愛の姿をただこうだと押し付けてるだけ。そうじゃないわ。私がどう愛されたいかをあなたは知ろうとも、わかろうともしていない。だって、愛って、自分のためじゃないでしょ。相手のためにあるものでしょ?」
 
うむむ…。と唸れる男性は、まだ救いがある(笑)。だが、なにいってんだよ…としか思えない男性には救いがない(笑)。
 
宗教的にいえば、愛には許しが必要なのだ。普段の言葉でいえば、見守るゆとりが必要なのだ。しかし、煩悩に支配され、視野が狭窄すると(基本、煩悩に支配されると人は狭窄する)、えてして、人は、この見守るゆとりをなくす。親子関係で問題が起きている状態をみればすぐにわかる。基本、親の方が心にゆとりがない。部下と上司との関係も同じ。
 
では、これをオレたち凡人はどう学んでいけばいいのだろう。
 
失敗を重ねて学ぶしかない…というのが正解だとオレは思う。
 
しかし、ただ失敗を重ねれば身につくといのではなく、失敗を通して自分をみつめるということだ。真実、相手を思う心が深ければ、たとえ、それが身勝手な深さがあったとしても、気づきを持つことはできる。
 
愛の伝わらないもどかしさに深く苦しみ、それでも相手を思う気持ちが揺るがなければ、その気づきはきっと見えてくる。そのために、自分がどう変わればいいのか、どういうふるまいが相手が望むものなのかが見えてくる。
 
そして、自分がそばにいることが愛だと思っていたものが、自分がいなくても、その相手が幸せであることが大事なのだと思えるようになる。自分は抜きにして、心から相手の幸せを願えるようになる。

そのときから、愛は単なる人の欲ではなく、もっと気高いものに変わるのだとオレは思う。
 
被災地で不明者を探しに出たある父親が、娘の遺体をがれきの向こうに見つけた。
しかし、重機がなくては、遺体を引き揚げることはできない。それでも父親は、亡くなった彼女にこういった。
 
「ああ。やっと会えたね。震災から20日も会えなかった。よかったよ、お前に会えて…ずっと会いたかったからさ…」。
 
この父親は最初っから、生きている娘にはもう会えないと心に決めていた。もう生きて会えるということへの執着を捨てていた。だから、娘の亡骸とそうやって対面することができたのだと…オレは思う。
 
人の思い入れ…それだけでは届かないものがこの世にはある。人が生きるということはそういうことだとオレは思う。
 
がんばるだけでみえる未来は、一見明るいもののように思える。しかし、いま東北の被災した人々にあるのは、震災がもたらしただれにぶつけることもできない自然の力で奪われたいのちへの悲しみを深い愛に変えるところから生まれた、がんばろうだ。
 
おそらく、その父親は、これからも愛をこめて、娘にこういうだろう。
 
一緒にがんばろう…