秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

我執に気づく

執着は焦りを生む。

執着はむずかしい。何事かに執着し、こだわりを持たなければ、自分の夢を実現したり、未来を拓くことはできない。かといって、あまりに我執にとらわれると自分も周囲も見失う。それが、金や物、名誉といったものだと、なおそうなる。ひどいことになると焦りから、不安が生まれ、それがイライラやうつを生む。

場合によっては、その精神状態が人との、あらぬ諍いを生んだり、そのことによって、人を傷つけたり、自分自身をも傷つけたりする。

親子関係では、子どもへの過度の愛が執着となり、虐待を生むこともあるし、子が親を愛し、尊敬していたればこそ、高齢になり、介護が必要になった親に辛く当たるということが生まれる。弱くなってしまった親、老いてしまった親の現実に向き合うことが辛く、どう接していいかわからなくなるからだ。それが、ぞんざいな言葉や態度となって、意図しない高齢者への虐待を生む。

男女の色恋沙汰なら、何か一つ、最後のスカしっペのように、一言言っておかないと気がすまないという、相手への執着ゆえの言葉の暴力を生む。いえない人間は、やけ食い、酒、自傷、薬に走る。結局、自分を傷つける。

すべからく、自分の中にゆとりがない。それが、執着が一旦、我執に変ると、ややこしいことにさせる要因だ。

しかし、いまの時代、自分へ自分へと心を閉じ、執着しないと、だれも自分の存在を認めてくれないのではないかという不安が広がっている。自分という人間を認めてもらえれる場と機会、そして、善良な他者が生活の中から大きく失われてきているからだ。

それが、焦りとなって、自分への執着を深めている。認めてもられる他人がいなければ、人は自分の中で、自分は正しい、自分は間違ってないと、世間の常識や道徳、倫理から自由になろうとするしかない。
つまり、自己中な人間が増大する。いわゆる、クレーマー社会だ。これは、テロリズムの背後にもある心理の一つ。

しかし、その自己中な人間を批難することで、一服の清涼剤を得ているのように思う人間にも、これが正しいという身勝手な正義がないとはいえない。いじめを始め、パッシングが社会現象のようになっているのはその現われだ。一つ不正義があれば、失敗があれば、よってたかって袋たたきにし、排除する。自分自身をふりかえることもなく。

これでは、ますます人からゆとりが失われる。絆が失われる。

先日、ディオススタジオに自転車を走らせている途中、青山一丁目のツインタワービルのわきの歩道で、ビルの店舗に商品の納品にきていた、兄ちゃんと口論になった。

納品車両が多く、車道を走りたくても通過する車両が危なく、人通りの少ないところを見計らって歩道に入ったのだが、その前を道を塞ぐように、真ん中で荷台を押している男がいる。チンをならしても道を譲ろうとはしない。

「どっちか寄って通れよ」。オレのその言葉にすぐには反応せず、通り過ぎようとする背中に、聞こえたのは、「こっちは仕事でやってんだ、このバカ!」。

「こっちは仕事でやってんだ」は、まだ、許せる。あるいは、「冗談じゃねぇよ」とか、「お前の方こそ、よけろ」なら、自転車を止めることもなかっただろう。その程度の言葉なら、無視できた。しかし、見ず知らずの人間にバカ呼ばわりされる覚えはない。思わず、自転車を止め、「バカとは何だ、バカとは?」とやってしまった。

要は、男の言い分は、オレは仕事で大変なのだ。だから、道の真ん中を通ってどこが悪い。自転車は車道を走れ(これはよく歩行者がいうが、自転車は歩道を走って問題がない。人を押しのけてはいけないが)というもの。それはいい。受け入れてやろう。しかし、バカは何だ。バカは?

さすがに、バカは言い過ぎたと思ったのだろう。最初にその言葉をとがめたときは、目線がうつむき、ひるんだ。しかし、最後まで、それへの侘びは口にしない。「どこの会社の人間だ。仕事をしている最中、人様をバカ呼ばわりするようなことは、社会人として企業人と恥かしくないのか」。ヘタをすれば、会社の信用問題になる。

しかし、見かけ、やんちゃな兄ちゃんのかっこうをしているオレが、年齢55歳で、かつて企業の役員をし、小さいながら会社を経営しているなどとは、夢にも思わなかったのだろう。相変わらず、言い返す最後にバカを付ける。これは、これ以上、いっても仕方ないと自転車で後にしたが、また、オレが去った向こうで、「何いってるんだ、このバカ!」。

次第に、怒りでなく、おかしくなってきた。部下を諭すように「何でもいいから、バカはやめろ、バカは」とたしなめる。それでも、また、バカをはき捨てるようにいっている。まるで、ちょっとしたコントだ。

ムカつきはしたが、自転車を走らせながら、はっと気づいた。そうだ。奴は、自分に向かって、バカといっていたのだ!

おそらく、オレに最初にバカといったとき、それがオレに聞こえることを期待していってはいなかったのだろう。だから、オレが通り過ぎるところを見計らって、はき捨てるようにいい、オレがその言葉を咎めたとき、バカという言葉だけには、言葉にはしないが、悪かったなと反応していた。

奴は、いつも心の中で、バカ、バカとつぶやいているに違いない。まるで、呪文のように。それは、おそらく会社の上司や同僚、いまの仕事、自分の周囲にいる家族、自分を取り囲む人間、たまたま、道を占有するなといわれた、だれかに対してもそうなのだ。バカという相手は、だれでもよく、だれにでも、常にバカ、バカと心の中でいい続けているに違いない。それが、いつか口癖のような言葉になっている。

しかし、実は、奴のバカをいう、だれでもいい、だれかは、自分なのだ。

仕事だったら何でも許されるわけではない。その常識がないのは、もちろんだが、仕事に誇りとプライドがあれば、会社への帰属意識や社会人としての意識があれば、簡単に場を譲ることができたはず。それが、「オレは仕事でやってるんだ」になる。つまり、仕事でなければ、こんなことはやっていない。本来、こんな仕事はやりたくないのだ、になっている。

こういう仕事をやっている自分への不満、不信で凝り固まっている。だから、心のどこかで、自分はダメな奴という思いが、呪文のようなバカという言葉になっているに違いない。

そして、思った。ああ。これは、オレの写し絵を見させらているのだ。

社会への怒り、心無い人間への怒り、それを常に抱いているオレは、それに対して無力な自分にきっと怒っているに違いない。まるで、奴が自分をからくも支えるために、呪文のようにバカを唱えているように。

オレの政治、社会、教育、人権への怒り。そのどれも、オレの執着が生んでいるものなのだ。そのとき、気づかされた。

普段なら、多少、道を塞ぐ人間がいても、目の前の自転車が走れるスペースができるまで、待てるものを
そのときは、一言余計なことをいわなくてはいられない気分だったのだ。きっと、イラついていた自分がいた。

その苛立ちには、きっと怒りがあった。怒り、そのものが悪いわけではない。しかし、何事かを人に伝えようとする人間が、自分の怒りという我執にこだわっていては、伝える言葉も伝わらなくなる。その怒りの激しさに、人を遠ざける。結局、利他のための怒りが、利他ではなく、自己中な怒りに変ってしまうからだ。

感情的になると人は、自分の心と向き合うことができなくなる。イラ立ちは、付きまとうものだが、自分のなすべきミッションのために、自分がどういう人間であるべきなのかを改めて、教えられた。

そして、いまの時代が、だれでもいい、だれかの社会になっていることを実感した。それは、匿名性や入れ替え可能性を語っている、オレ自身の問題でもあったのだ。