秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

道草のある生活

都内では自転車通勤が注目を集めている。
 
都内、とりわけ山の手線内は、運搬車両とタクシー以外、マイカーの利用は禁止にしたらどうだ…と、以前、人に話していた時期がある。
 
地下鉄と山手線で都内中心部は十分移動できるし、急ぎのときはタクシーを使えばいい。マイカーの乗り入れ禁止となれば、道路の交通量は半分以下になる。渋滞も解消できるし、空気も汚さない。二酸化炭素の総量制限目標達成にだって、寄与できる。
 
その代り、自転車道を整えて、歩行者と自転車が安全に走行できる工夫をする。
イカーが使えないかわり、自転車利用を奨励する。自転車利用の証明書を発行し、それがあると、どこかの店舗で飲料水が無料でもらえるとかの特典をつける。自転車は喉が渇く。
 
車を使っているときは、そういう発想は浮かばなかった。しかし、10年以上前、車をやめて、自転車だけにしてから、そうした考えを持つようになった。こんなエコな移動手段はないし、心がやさしくなる…そんな感覚を持つようになったからだ。
 
都心を走っていても、ふと沈丁花のにおいやキンモクセイのにおいにふれることがある。そのにおいで、季節を感じることもある。梅、桜、つつじ、新緑、セミの声、日差し、紅葉、落ち葉、木枯らし…そういった自然の移ろいを風と風景の変化からからだににじかに感じ取ることもできる。
 
おもしろうそうな店、気になる店…車ではすぐにとめて立ち寄ることもできなかったショップや飲食店に、思いつきで立ち寄ることもできる。歴史のある建物、遺構、記念碑、美術館、博物館、寺社仏閣…といったようなところも、車では素通りしていたのが、ついでだからと立ち寄る気にもなる。
 
つまり道草をしたくなる。
 
この世の中、ずいぶんと人に道草をすることを許してこなかった。子どもは学校と塾、主婦はカルチャーセンターにエステ、ショッピング、男は職場と飲み屋と満員電車…。ゆとりがあるようでゆとりがなかった。
 
とりわけ、格差社会が生まれ、いつ自分のポジションや社会的帰属と立場が奪われるかわからないという中、子どもも大人も、何かに追い立てられるように生きていた。子どもの道草も大人の道草も許されない社会…
 
しかし、どうだろう。この辺で、電気も燃料も、いままでのような湯水のように使う時代から卒業して、その代り、道草ができるような社会に変えていったら。
 
昔、道草の途中でつくしをみつけたり、四葉のクローバーをみつけて喜んでいた、あの頃の豊かではなかったが、温かみのあった時代の知恵を見直してみたら。
 
人は完全ではない、人は人が思うほどかしこくもない。そして、人は人が思うほど正しくも生きてはいない。
 
せかせかと完全を求め、それを人にも求める生き方ではなく、正しさばかりに固執し、固執することで、正義の姿をゆがめるような人とのふれあい方でもなく、互いの愚かさを持ち寄り、その愚かさを互いが笑えるような、道草の時間のある生活、生き方を考えてみてはどうだろう。