秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日常を救えるのは確かな日常でしかない

震災以後、被災地は別にして、自分たちの生活がいろいろな意味で普段の日常とは違ってきている…という人は多いだろう。
 
演劇芸術の入門で、必ず学ぶのがハレとケ。ハレとは非日常のこと。晴れ着、晴れの祝いの日…というのがハレ。普段の生活とは異質の冠婚葬祭といった、儀礼儀式や祭典祝宴などの時間をそう呼ぶ。だから演劇の時空もこのハレに属する。
 
余談だが、そこでは、伝統にのった、ある形(かた)が身体的にも精神的にも必要とされる。神社へのお参りの仕方もそのひとつ。古典芸能の能楽、歌舞伎、日舞といった日本的なる所作や動きが、天皇制下における儀式儀礼をもとに生まれているとオレが語るのも、それに起因している。
 
ケとは、褻と書く。いわゆる俗の意味。通俗、世俗、風俗といったありがちな日常のことだ。
 
民俗学者柳田國男が、日本人の生活を分析し、ハレとケが共存する、その独特の日本人の時間軸の取り方をこのように解説した。
 
演劇は、民俗学と深いつながりがあるし、文化人類学、史学、そして哲学の身体論などに起因しているから、演劇の始まりや文化を知る上で重要な言葉として、ハレとケが語られるようになった。
 
ちなみに、穢れるとは、「気枯れる」というのが語源。要は、人々の日常生活が歪むことを気が枯れると表現し、それが、汚れる、穢れるという言葉に変化したのだ。
 
たとえば、大きな被害を受けた被災地の日常は、気枯れた状態になった。あるべき人々の生活や平常心が失われ、その日常を回復するための取り組みや試みが気枯れた状態から普段の俗へ戻そうという姿だといえる。そこには、日本人の日常生活の意識を支える共同体意識が大きな力になる。
 
一方、東京など被災の程度が軽かった地域やまったく被災の影響を受けなかった関東以西、あるいは海外の人々の中に広がる支援の試みは、ハレに属する。
 
普段の生活のなかにはない、時間。普段の生活では、関わり合えない他者への奉仕やボランティア…というのは、柳田の理論に照らせば、晴れの時間なのだ。
 
そこには、ある種、昂揚感や興奮が生まれる。奉仕や支援を動かす心にはパッションが必要だからだ。熱意、情熱といった熱い思いがなければ、普段動かせない石を持ち上げるほどの力はでない。
 
しかし、回復すべきは、気が枯れた人々のケ。つまり日常生活。日本の共同体はきちんとした日常をその根本の枠組みとし、その土台の上でハレを生きてきた。厳密にいえば、気が枯れた状態を回復できるのは、回復を目指す人々自身が自分たちの日常をまずは、きちんと生きることでしかない…とオレは思う。
 
ある種の昂揚感を伴った熱意で、普段動かせない石を動かせるのは、わずかな期間しかできない。それ自体をオレは否定しない。そうした力が必要なときは、そうした力がいるからだ。
 
だが、気枯れた日常を回復するのには、たいへんな時間がかかる。一瞬の力の次には、3年先、5年先、10年先…といった、先を見据えた取り組み、つまり、日常的な取り組みが必要になってくる。
 
そのことを考える力は、ハレの力にはない。つまり、人は永遠にハレを生きることはできない。それほど、人のエネルギーは無限ではない。ハレには熱意がいるように、それを生きぬくエネルギーがいる。しかし、そのエネルギーの源泉は、ケという確かな日常があってこそなのだ。
 
いま、いろいろな式典や大規模な人の集まり、あるいは被災地の人々の心情を配慮した映画の上映中止などが起きている。プロ野球セリーグ開催が物議をかもす…。それは、まだ余震が続き、人の安全が完全に確保されていないという物理的な事情と被災した方々の状況を顧みようという配慮だけのように見えるかもしれない。
 
人々は自覚もないし、意識もしていないかもしれない。だが、オレたち日本人の多くが、気づかないまでもわかっている。いくつかのそうした自粛の裏にあるのは、他者への思いもあるだろうが、それ以上に、日常を真に救うのは、確かな日常でしかないということなのだ。
 
何事かをやることで、いままである日常を自らが日常ではないものに変質させないように、平常心を保ち、自分たちの生活とは何かということを内省するためなのだ。
 
どのようなことであれ、人は、目の前にある事象に心を奪われると、日常の冷静さや平静さを失う…ようにできている。自分は日常を見失っていなか…ふと足をとめて、はやる心を抑えて、それを考えることも必要。
 
もう一度いう。日常を真に救えるのは、確かな日常でしかない。