秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

だって、お米がないから…

政権批判、東電への非難が喧(かまびず)しい…。
 
原発関係者が東電や文科省が測定する放射能測定値は人体に被害があるものではないと連呼しても、それは信じられないと、被ばくの危険性を連呼する。こうした人たちは、IAEAの測定結果すら否定するのだろうか。
 
アメリカを始め、海外の政府機関が半径80㎞以上に避難せよ、国外退去せよと指示を出し、それがまた、そうした人たちの猜疑心を掻き立て、掻き立てられた猜疑心の保証のように、また、それを連呼する。
 
この人たちは、アメリカの動向は信じても、同胞の研究者や専門家の言葉は信じられないのか。つまりは、被害を回復しようとうしている当時者である、日本人を信じないのか。アメリカなら信じられて、日本は信じられないのか。ならば、なぜ、この国に暮らすことができているのだろう…。
 
それは、さらに、福島県の被災地やその周辺の人々の不安をかきたて、被災地からほど遠い地域の人たちまでもが埼玉アリーナに避難する…。東京に住む人々までもが、東京から離れようとする。不安の連鎖を呼び、人々を、被災の混乱を、より混乱させている、自分たちの言動の責任を、この人たちはどう引き受けるのか。
 
確かに政府の対応、東電の情報開示の仕方には問題がある。しかし、いま、現実に、福島原発では、放水作業に自衛隊、警察、消防が必死の作業をやっている。
 
施設内には、50名ほどの東電、関係会社の社員、そして、急遽公募に応えて、参加したオペレーションの技術者が被ばくを覚悟した、死と隣合わせの作業を続けている。この国を守るために。その非難しているその人たちのいのちと安全を守ろるために、名もなき、50人が死もいとわず闘っている。
 
それを前に、そうした議論が正義の名を仮て、まことしやかに、いま緊急の問題のように語られている…。
 
不思議なことだ。東北に原発を押し付け、その原発の電力の恩恵をうけ、生活していた人たちが、それをいう。そこまで疑うのなら、なぜ、原発の安全性や危険性をこれまで議論しなかったのか。訴え続けなかったのか。原発に頼らない、電力不足の生活を自ら生きようとしなかったのか。原発にかわる電力の実現を訴えてこなかったのか。
 
政権や政府を非難する。だが、ちょっと待ってくれ。政権交代を実現したのは、国民の総意だ。裏切られた云々いっても、それを選んだのは国民なのだ。自らがその政権を選んだ責任はなく、政権だけに責任があるのか。
 
小沢を選択するか、菅を選択するかのときに、菅を選択したもの国民の総意だ。民主主義社会において、多数が少数を凌駕すれば、それが民意になる。
 
それを否定して、オレだけは違っていたというのなら、その人は民主主義を否定するのか。総意でないとするなら、そうした自分の意志が政治に反映する活動を行ってきたのか、運動を行ったのか。圧力団体やロビーストに働きかけ、政策の転換を提言したのか。しないまでも、そうした市民運動を起したのか。
 
そして、首都圏では、水、米、牛乳、食料が消え、ガソリンスタンドの前に渋滞ができる…。
 
買占めだけが原因ではない。工場が、物流センターが被害をうけたところもある。電力の不足で稼動できないところもある。ガソリンが配送できないといった物理的な要因もある。
 
政府の発表があいまいだから、不安を掻き立て、それが買占めにつながっているのだと連呼する人がいる。被災地では、水、燃料が足りないといったときに、買占めが当然のことのように、またまた自分たちの正義を語り、こうした行動をとるのは、政府が悪いからだと責任を転嫁する。
 
ちょっと待ってくれ。それは屁理屈というものだろう。自分が直接の被災者でもないのに、どうして被災地への配給までもが支障を生むような行為が、人として、できることなのか。許されて当然のことなのか。その行為は、人として恥ずかしいことではないのか。
 
昨日、佐賀にいる姉から米が届いた。姉はいった。「たくさん、送るから困っている人に分けてあげて」。それが人として、当り前の言葉ではないのか。
 
オレの住む乃木坂界隈にも、ひとり暮らしの高齢者がいる。よくいく飲み屋のママ、オレはばばあと呼び捨てにしている奴が、スーパーの近くですれ違うと、餅をぶら下げている。「どうしたの。餅なんか買って…」。するとばばあはいった。「だって、お米がないから…」。
 
昨日、届いた米を3キロほど小分けして、ばばあの店に持っていった。この店には、ほかに同じ一人暮らしの高齢の女性も飲みにくる。その人の分もと思ったが、高齢の女性に重い荷物を持たせるのは気の毒だし、無理だ。また、小分けしたやつを持ってくるから…そういって店を出た。
 
米や燃料。高齢者や障害のある方にとって、それが手近なところで入手できないと、運ぶことさえできない。ITなんてできないから、遠隔地からの通販を頼むこともできない。そうした人を生んでまで、買占めは当然だといえるのか。
 
ならば、その買占めた米の少しでも、燃料のわずかでも、近在に住む高齢者や障害のある方たちへ、小分けしたのか。それをしなくて、いや、そもそも、それは政府が悪いからと、それでも自分だけのための買占めを当然とするのか。
 
人が普段生きていく中においてさえ、すべてが安全という保証はどこにもない。今回のような大震災でなくとも、命を落とす人はいる。それが人が生きていくということだ。
 
自分の安全や安泰はもちろん大事だ。しかし、だからといって、足る以上のものを手に入れ、それによって困窮する人がいてもよいのか。いますぐ足る以上のものを必要とする事情がどこにあるのか。
 
都合のいい正義、高揚と興奮に彩られた正義、心情と正義を混同した正義…。それは正義を悲しさに変え、愚かしさに変え、寂しさに変えている。
 
「だって、お米がないから…」。餅を網であぶり、それをひとり食べているばばの姿がオレにはそのとき浮かんだ。きっと、戦中、戦後を知っているばばあは、これも仕方がない、あのときに比べたら、まだ幸せ…そう思っているだろう。被災地の人の生活を考えたら…そう思っているかもしれない。